「史上最悪の連続殺人鬼からの依頼は、たった1件の冤罪証明だった」——このキャッチコピーが、本作のすべてを語ってもいるし、何ひとつ語っていないとも言える。
2022年公開の映画『死刑にいたる病』は、『凶悪』『孤狼の血』の白石和彌監督が、櫛木理宇の同名小説を原作に映画化したサイコサスペンスである。24人を殺害した死刑囚・榛村大和(阿部サダヲ)と、冤罪証明を依頼された大学生・筧井雅也(岡田健史)。アクリル板を挟んだ面会室で繰り返される対話は、静かでありながら、見る者の足元を少しずつ崩していく。
誰もが最初、雅也と同じ目線でこの映画に入る。だから気づかない。いつの間にか榛村の手のひらの上に立たされていることに。そして128分が終わったとき、観客は一つの不快な事実と向き合うことになる——自分もまた、少しだけ榛村に魅了されていたのではないかと。
本稿ではあらすじからラストシーンまでを詳述し、「爪」というモチーフの意味、原作との差異、加納灯里という存在の正体まで、徹底的に読み解いていく。
作品情報
タイトル:死刑にいたる病
公開年:2022年5月6日
上映時間:128分(PG12)
監督:白石和彌
脚本:高田亮
原作:櫛木理宇『死刑にいたる病』(早川書房文庫) 配給:クロックワークス
キャスト
- 榛村大和:阿部サダヲ
- 筧井雅也:岡田健史(現・水上恒司)
- 金山一輝:岩田剛典
- 加納灯里:宮﨑優
- 筧井衿子:中山美穂
- 筧井和夫:鈴木卓爾
あらすじ——「冤罪証明」という罠の始まり
理想とは程遠いランクの大学に通う雅也は、鬱屈した毎日を送っていた。そんなある日、彼のもとに1通の手紙が届く。それは世間を震撼させた稀代の連続殺人事件の犯人・榛村からのものだった。
出典:シネクイント
24件の殺人容疑で逮捕され、そのうちの9件の事件で立件・起訴、死刑判決を受けた榛村は、犯行当時、雅也の地元でパン屋を営んでおり、中学生だった雅也もよくそこに通っていた。手紙の中で、榛村は自身の罪を認めたものの、最後の事件は冤罪だと訴え、犯人が他にいることを証明してほしいと雅也に依頼する。
雅也は父親から学業面で認められず、大学でも友人がいない。自己肯定感の低さを抱えたまま、東京のキャンパスをさまよっている若者だ。そこへ届いた手紙は、彼に「特別な使命」を与えた。雅也は東京拘置所を訪れ、榛村と面会を重ね始める。
出典:日本経済新聞
榛村が目をつけるのは男女問わず必ず16歳から18歳で、清潔感があって真面目で賢い優等生タイプの子ばかりだ。指と爪に特にフェティシズムを感じており、指と爪に行う拷問が最大の楽しみだったようだ。1件から8件の被害者はこれらの特徴が当てはまるが、9件目の被害者女性「根津かおる」だけは違いがあった。根津かおるの年齢は23歳であり、他8件の被害者が漏れなく指が欠損していたのに対して、彼女の指は10本すべて残っており、拷問された形跡もなかった。
この「9件目だけが異質」という点が、雅也の調査意欲に火をつける。一方で調査を進めるうちに雅也は、大学で再会した中学時代の同級生・加納灯里と交流を深め、また長髪の不審な男・金山一輝の存在が浮かび上がってくる。
出典:伊賀タウン情報 YOU
雅也は榛村が自分の父親ではないかという疑念を抱く。榛村本人もその可能性を否定せず、雅也は複雑な気持ちになる。これ以降、雅也は凶暴な一面を見せるようになり、中学時代の同級生である灯里も心配している。
ラストまでのネタバレ——すべては榛村の手のひらの上
調査を続けた雅也はやがて、金山一輝が榛村の元ターゲットだったことを知る。
かつて少年時代に榛村と出会って弟との「痛い遊び」を強いられ、成長後の再会では根津かおるを「選ばされた」ことで榛村からの精神的支配に苛まれ続けていたという青年・金山一輝の証言により、殺人鬼・榛村が唯一「冤罪」と訴えた殺人事件も結局は彼の凶行だと察した雅也。
榛村は死刑執行されるその時まで「元ターゲットたち」の誰かと交流を持ち、支配し続けるネタのひとつにするために根津かおるを殺した。榛村は逮捕を覚悟したとき(爪を捨てた時)に死刑までの時間をどう過ごすか考えた上で根津かおるを殺し、彼女の指や爪に何もしなかったのは、別人の犯行に見せかけるために我慢したのだ。
そしてクライマックス——。
結局「9件目の殺人事件」も榛村の犯行であったことが分かり、榛村は「一度狙った相手は何年かけてでも命を奪う」という執念深さを持っていることが判明する。では何故わざわざ榛村は、雅也に事件を掘り返させたのか?幼少期にトラウマを植え付けた金山同様、中学時代に雅也の心を掌握した榛村は、「刑務所の中からでも人を操ることができる」と証明し、そのことに快感を得ていたのだ。
真相を知った雅也は榛村への幻想から醒め、普通の生活を取り戻そうとする。灯里と交際し、ようやく日常が戻ってきたかに見えた、その瞬間——。
雅也に手を引かれ、彼の部屋を訪れた灯里。2人で良いことをしようと手を触れ合った際、雅也はふと彼女の指を眺めながら、「爪、綺麗だね」と囁く。すると灯里は彼を見つめながら、「剝がしたくなる?」と返す。
「好きな人の一部を持っていたいって気持ちわかるよね?」というセリフが、彼女が榛村の影響下にあることを明確にし、観客に衝撃を与える。この言葉には、榛村の異常な思想が灯里に完全に根付いていることが暗示されており、灯里自身が新たな「榛村的存在」として歩み始める可能性を感じさせる。
映画はここで幕を閉じる。雅也の「救済」は、実は榛村が仕掛けた次の罠の入口だったのである。
「爪」への執着——快楽殺人者の核心
出典:ファッションプレス
本作において最もグロテスクかつ象徴的な要素が、「爪」だ。
冒頭でまるで花びらをまくように映ったそれは、榛村がターゲットから剥ぎ取った爪だった。ターゲットの身体の一部である爪は、榛村にとって「生きた証」だった。しかし、自分の逮捕が間近に迫っていると悟った榛村は、好きなターゲットたちの一部を永遠に自分のものにするため、爪を自分の選んだ場所に自分の時間で処分したのだと思われる。証拠品に成り下がることなど、もってのほかだったのだ。
榛村にとって爪とは何か。それは単なるフェティシズムの対象にとどまらない。優等生の手指——つまり「正しく育てられた者の象徴」——を破壊し、所有することは、愛されずに育った自分が、愛された者の「本質」を奪う行為と読める。虐待の中で育ち、まともな教育すら受けられなかった榛村が、「清潔感があって優等生タイプ」の若者だけを狙い続けたのは、そこに自分が決して手に入れられなかったものを見ていたからではないか。
爪を川に捨てたのは母の思い出との決別とも捉えられる。榛村は自分が完全に壊れており、もはや母の愛や他人の愛を得られないと悟って、すべてがどうでも良くなったのだろう。母との絆を完全に捨て去ること=自分の命すらどうでもよくなること=「死刑にいたる病」だ。
そしてラストで灯里が口にする「剝がしたくなる?」という言葉は、榛村の「病」が彼女の中で完全に開花していることを示す。爪はこの映画において、「支配と破壊の欲動」を凝縮した最小単位のシンボルなのだ。
加納灯里——榛村が仕掛けた最後の罠
出典:伊賀タウン情報 YOU
加納灯里は、雅也が地元にいた頃の同級生だ。当時から根暗だった雅也と同じく、灯里も地味で暗くて周囲とは上手く馴染めない子だった。中学時代の雅也から見れば、灯里はクラスの隅にいる目立たない存在に過ぎなかった。原作によれば、中学時代の雅也は加納灯里を内心で見下していて、友達のいない彼女に話しかけていたのは「誰にでも平等に接する自分」を演出するためだったという。
ところが大学で再会した灯里は、まるで別人のように明るい性格になっていた。暗さを消し、雅也に積極的に近づいてくるその変貌ぶりに、雅也はどこか奇妙なものを感じながらも、徐々に惹かれていく。
お互い同じ大学に通っていたことを知らなかったのだが、キャンパスでばったり出会い、その後恋人関係になる。その灯里が突如、怪我で出血した雅也の手をべろりと舐めるという奇妙な行動を見せる。このシーンは観客に一瞬の違和感を与えるが、話が進むにつれてその意味が浮かび上がってくる。
榛村との面会を重ね、調査に没頭し、暴力的な衝動を抱え始めた雅也にとって、灯里は「地元の記憶と繋がる、安全な存在」として機能していた。榛村の影響で自分を見失いかけた雅也が、最終的に正気を取り戻す拠り所となったのも、灯里の存在だった。
しかし——。雅也の恋人となった加納灯里は、自分も榛村のベーカリーに通い、好きだった雅也へのアプローチの相談にも乗ってもらったと呟いた。
元ターゲットが何人引っかかったのかは分からないが、少なくとも雅也と加納灯里は引っかかっていた。榛村は手紙をたくさん出した中から引っかかった雅也に対して、実の父親であるかのような演技をして雅也を操ろうとしていた。
灯里もまた、榛村から手紙を受け取り、雅也と同じように感化されていた——。ただし、その感化の深さは雅也の比ではなかった。雅也が最終的に榛村の幻想から覚醒したのに対し、灯里はより深く、より完全に「病」に染まっていたのだ。
灯里の「爪への執着」は、榛村が遠隔でも人の心を操ることができる恐ろしさを表している。そして映画は、雅也が「爪、綺麗だね」と囁いた瞬間に、灯里から「剥がしたくなる?」「好きな人の一部を持っていたいって気持ち、わかるよね?」という言葉を引き出す形で幕を閉じる。
灯里が爪を見せて「剥がしたい?」というのも、榛村と雅也のことを知っていないと出てこない言葉であり、「受け入れてくれる?」という発言は榛村が言いそうな言葉だ。榛村が「刑務所の中からでも人を操れる」という快感を証明するために設計した、壮大な二段構えの罠——その最後の一手が、加納灯里という名の女性だったのである。
自ら手にかけることができない現状で、榛村が用意していたプランBとは、雅也に兼ねてから好意を抱いていた灯里に目をつけ、密かに時間をかけて洗脳した結果、すでに病を発症させることに成功した灯里に雅也を託すことだ。
安全な日常のはずだった場所に、すでに病は届いていた。灯里は「救い」ではなく、榛村が仕掛けた最後の一手だったのだ。
そして映画は、最後の面会にて雅也が尋ねた「榛村の母の爪は綺麗だったか」という問いに対する榛村の答えによって、連続拷問殺人鬼の知られざる物語を垣間見せる。この問いと答えのやり取りは、本作でもっとも静かで、もっとも恐ろしい場面のひとつだ。
原作との違い——映画が選んだ「感染」の強度
原作は2015年に『チェインドッグ』として刊行され、2017年に改題・文庫化された櫛木理宇の小説だ。映画版との最大の差異は、ラストシーンの構造にある。
原作では、榛村がかつて獲物候補だった人物に手紙を送りまくっており(担当弁護士の佐村が洗脳されており手引きしている)、その一人である灯里がずっと好きだった雅也にアプローチするための方法を榛村に聞いていた……というくらいの塩梅だった。しかし映画はこれでもかと飛躍している。
具体的には、映画版は雅也が榛村への執着から離れ、恋人となった加納灯里と新たな人生を始めようとしていたところに、灯里も榛村大和とつながりを持っており(灯里も榛村のパン屋の常連だったという設定)、雅也よりもさらにどっぷりと彼に洗脳されていたことが明らかになる。そして「(私の)爪剝がしたい?」「好きな人の一部を持っていたいって気持ちわかるよね?」と、雅也に問いかけてきて映画は終わる。
原作が「灯里も榛村に操られていた」という事実にとどめているのに対し、映画版は灯里の洗脳がより深く進行し、すでに「第二の榛村」として雅也に向き合っている段階まで描く。これは「榛村大和という病が伝染する」というテーマを視覚的かつ直撃的に表現するための改変だ。映画ならではのジャンル的な着地点であり、余韻ではなく「恐怖のまま終わる」という白石和彌監督の選択だと言えるだろう。
また、映画では面会に立ち会う刑務官まで洗脳して支配下に置いているという演出が加えられている。これも原作にはない映画的誇張であり、「榛村の超人性」を更に際立たせている。
衿子と榛村の過去——「お母さんの爪は綺麗でしたか?」という問い
出典:伊賀タウン情報 YOU
調査を続けるうちに、雅也は思いもよらない事実に直面する。祖母の遺品を整理していた雅也は、若き日の母・衿子(中山美穂)と榛村が並んで写る古い写真を発見する。彼女と榛村に面識があることを知った雅也は、施設の関係者を訪ねる。母親が過去に妊娠をして施設を追い出された経験があることを耳にした雅也は、その相手が榛村ではないかと思い始める。
雅也は、かつて榛村が養護施設で親密な仲になった衿子の息子ということもあり、特別な獲物として目をつけられていたようだ。つまり、榛村が雅也に手紙を送ったのは「たまたま中学時代に顔見知りだったから」だけではなく、衿子という接点を通じて、雅也は榛村にとって「特別に意味のある駒」だったのである。
彼の問いかけに榛村が否定しなかったことから、自身が連続殺人鬼の息子だと信じ込んだ雅也は、通りすがりの男性を暴行する。殺人犯の遺伝子を持つ自分もまた、殺人犯になる可能性がある——恐ろしいまでの刷り込みと、人間の脆さが露見された展開だ。
しかし実際には、衿子が施設にいた時に身ごもったのは、ボランティア活動で出会った無責任な妻帯者の男の子供であり、榛村は死産で生まれたその赤ん坊の処理などを手伝ったに過ぎない。当然、榛村は雅也が自分の子供ではないことを確信していたはずだが、そのうえで彼が雅也に向けて言った白々しいセリフの数々を思い返すと、その計算高さに慄然とする。
榛村は一度も「君は僕の息子だ」とは言わなかった。ただ否定しないことで、雅也の妄想を育てた。「自分で決めな」「やっぱり君は凄い」——それらの言葉はすべて、雅也の承認欲求と父親への劣等感に精密に照準を当てた毒針だったのだ。
そして映画後半、雅也は榛村との最後の面会に臨む。調査の果てに「9件目もやはり榛村の犯行だ」と悟った雅也は、幻想から醒め、ある問いを口にする。
「——榛村さんのお母さんの爪は、綺麗でしたか?」
榛村はひと呼吸置いて、静かに答えた。「僕が小さい頃は」——それだけ言って、去っていった。
このたった一言の応答が、榛村大和という人間の核心を一瞬だけ照らし出す。幼少期の榛村には、母・実葉子から愛情を注がれていた時期があった。そのころの彼はまだ人間らしい感情を持っていたはずだ。しかし義父たちによる虐待が始まり、母が守ってくれなかったとき、榛村の中で何かが壊れた。美しかった母の爪は、もはや愛の象徴ではなくなった。
出典:映画.com
爪は、愛のメタファーだ。
それが榛村の中に強烈にインプットされている。愛の象徴を奪われた榛村は、被害者を拷問する際に爪を収集するようになった。綺麗な爪を持つ優等生の若者たちから、その爪を剥ぎ取ることで、幼少期に母の愛を受けていたあの満たされた感覚を取り戻そうとしていたのである。
冒頭でまるで花びらをまくように映ったそれは、榛村がターゲットから剥ぎ取った爪だった。ターゲットの身体の一部である爪は、榛村にとって「生きた証」だった。しかし、自分の逮捕が間近に迫っていると悟った榛村は、好きなターゲットたちの一部を永遠に自分のものにするため、爪を自分の選んだ場所に自分の時間で処分した。証拠品に成り下がることなど、もってのほかだった。
爪を川に捨てたのは母の思い出との決別とも捉えられる。榛村は自分が完全に壊れており、もはや母の愛や他人の愛を得られないと悟って、すべてがどうでも良くなったのだろう。母との絆を完全に捨て去ること=自分の命すらどうでもよくなること——それこそが「死刑にいたる病」の核心だ。
雅也の問いは、だからこそ深く刺さった。事件の論理的な解明ではなく、榛村という人間の最も根源的な傷に触れる問いだったからだ。そしてその答えを聞いた雅也もまた、何かを理解したはずだ——殺人鬼の始まりが、愛されたかった一人の子供だったという、どうにも割り切れない事実を。
考察——「榛村大和」という病の正体
出典:EBiDAN NEXT
「信頼関係を築いた人をいたぶる。そういう風にしか人と付き合えない。ずっとそうなんだ。僕もある意味被害者だよ。わかるよね。望まれずに生まれた子供は生きてることを恨むようになる。」と作中で述べており、この作品に出てくる人の殆どは幼少期に何かしらのトラウマを抱えている。
本作の恐ろしさは、榛村が「完全な他者」として描かれていないところにある。雅也は父親から認められない、母親は自分では何も決められない、金山は兄との関係に傷を負う——と、登場人物のほぼ全員が何らかの傷を持っている。榛村はその傷口を正確に察知し、そこだけに光を当てる。「君は凄い」「君のことが分かる」という言葉は、承認されてこなかった人間にとって最も強力な毒だ。
「榛村が本当の父親だったらいいのに」とまで考える雅也の心理は、権威主義的な父親に半ば強制され進学高校に入ったもののついていけず、東京のFラン大学に通う雅也にとって「死刑囚の息子かも知れない」というのも彼にとってはある種のステイタスになっていた。のめり込めるほど熱中できるものもなく得意分野もない「何者でもない」雅也にだって承認欲求はある。
この設計は現代のどこにでも刺さる。SNSで「何者か」になろうとする若者、ルーティンの中で埋没する大人、承認欲求に飢えた人間——すべてが榛村にとって潜在的な獲物だ。
そして映画が最後に突きつけるのは、「真犯人を見つけた主人公が救われる」という物語の約束を完全に裏切る結末だ。正義を達成した後に待っていたのは、別の感染者だった。雅也は榛村への執着から離れ、恋人となった加納灯里と新たな人生を始めようとしていたのだが、最後の最後に加納灯里も榛村大和とつながりを持っていたことが明らかになる。
本作の「死刑にいたる病」とは、特定の殺人鬼の話ではない。承認されなかった者の心の隙を突き、じわじわと侵食し、やがて宿主を「次の病巣」へと変えてしまう、目に見えない伝染病の話だ。そして観客もまた、128分をかけて榛村大和に魅了され、彼の論理を「なんとなく理解してしまった」自分に気づく。その瞬間、観客もまた軽度の感染者になっているのかもしれない。









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