2009年に公開された映画『MWームウー』は、漫画の神様・手塚治虫が遺した作品群の中でも、その過激な内容から「禁断の問題作」「最大の禁忌(タブー)」と称されるピカレスク・ロマン『MW』の実写化である 。
本稿では、この野心的な作品を徹底的に分析する。原作が内包する鋭い社会風刺、政治批判、そして人間の道徳観を根底から揺さぶる「悪」の描写は、商業映画として成立させる上で極めて高いハードルであったことは想像に難くない。
引用元:ゲオオンラインストア
この記事は、映画の表面的なあらすじをなぞるだけでなく、その物語の深層、原作から改変された点、そしてその改変がもたらした影響について、ネタバレを完全に含んだ形で詳述するものである。本作の物語構造を解剖することで、一つの重要な力学が浮かび上がる。
それは、登場人物である結城と賀来の対立だけでなく、製作陣と手塚治虫の「映像化不可能」とまで言われた原作との間の、メタ的な葛藤である。最終的に、本作がエンターテイメント作品として、また手塚作品の映像化として、どのような評価を受けるべきかを考察していく。
作品概要:2009年、スクリーンに描かれた悪のカリスマ
本作は2009年7月4日に公開され、当時「のだめカンタービレ」の爽やかなイメージで絶大な人気を誇っていた玉木宏が、キャリアで初めて本格的な悪役に挑戦したことで大きな話題を呼んだ 。監督は『明日があるさ THE MOVIE』の岩本仁志が務め、脚本は『デスノート』シリーズで知られる大石哲也が手掛けている 。
また、映画公開に先立ち、前日譚となるスペシャルドラマ『MW-ムウ-第0章 ~悪魔のゲーム~』が放送された 。このドラマは、映画本編では十分に描ききれなかった主人公・結城美智雄の過去と、彼が悪の道へと堕ちるに至った経緯を補完する役割を担っている 。
映画本編における結城の動機付けの弱さは複数の批評で指摘されているが 、この前日譚ドラマの存在は、製作側が映画単体での物語的欠落を認識し、それを外部から補強しようとした試みであったと解釈できる。キャラクター造形の根幹に関わる部分をテレビドラマに委ねたという事実は、映画本編がアクション描写に比重を置いた結果、物語の深掘りが犠牲になった可能性を示唆している。
| 項目 | 詳細 | 典拠 |
| 公開日 | 2009年7月4日 | |
| 上映時間 | 129分 (または130分) | |
| 監督 | 岩本仁志 | |
| 脚本 | 大石哲也、木村春夫 | |
| 原作 | 手塚治虫 | |
| 主なキャスト | 玉木宏、山田孝之、石田ゆり子、石橋凌、山本裕典 | |
| 主題歌 | flumpool 「MW ~Dear Mr. & Ms. ピカレスク~」 | |
| 配給 | ギャガ・コミュニケーションズ | |
| レイティング | PG-12 |
詳細なあらすじ(ネタバレあり):破壊と救済、二人の男の16年
物語の核心に迫るため、ここでは結末を含む全てのプロットを詳述する。
発端:沖之真船島の悲劇
物語は、16年前に沖縄近海に位置するとされる架空の島「沖之真船島」で起きた一夜の惨劇から始まる。この島には、米軍が秘密裏に開発・貯蔵していた致死性の神経ガス兵器「MW(ムウ)」が隠されていた。ある夜、このMWが事故によって漏洩し、島の住民は一人残らず死亡する 。この重大な事実を隠蔽するため、日米両政府は特殊部隊を派遣し、ガス漏れから生き残った可能性のある島民を虐殺、事件そのものを歴史の闇に葬り去った 。
この地獄絵図の中から、洞窟に隠れていたことで奇跡的に生き延びたのが、二人の少年、結城美智雄と賀来裕太郎であった。
結城美智雄の暗躍
引用元:JFDB
16年の歳月が流れ、成長した結城美智雄(玉木宏)は、誰もが羨むエリート銀行員としての地位を確立していた。しかしその完璧な仮面の裏で、彼は良心の呵責を一切持たない冷酷な怪物へと変貌していた 。彼はMWの後遺症とされる脳の障害により、道徳心を完全に失ったとされている。
物語は、結城がタイで起こした誘拐事件から本格的に動き出す。彼は自らの壮大な計画の資金源と、事件関係者への復讐のため、邪魔になる人間を次々と手に掛けていく 。その手口は巧妙かつ残忍であり、美しい容姿と明晰な頭脳を最大限に利用する。警察に追われると、彼は賀来が神父を務める教会へ逃げ込み、懺悔室に隠れる。神父が持つ「告解の秘密を守る義務」を悪用し、追跡を振り切るのである 。
賀来裕太郎の苦悩
引用元:JFDB
もう一人の生存者である賀来裕太郎(山田孝之)は、島の悲劇の贖罪のためか、神に仕える敬虔な神父となっていた 。彼は、親友である結城が繰り返す凶行を止めなければならないと強く願っている。しかし、16年前に命を救われたという負い目と、事件の秘密を共有する唯一の存在であるという共犯意識から、結城を警察に突き出すことも、彼から完全に離れることもできない 。
結城は賀来のその葛藤を見透かし、時に犯罪への協力を強要する。賀来は「神よ、我が身を焼いて下さい!」と祈り、苦悩しながらも、悪魔的なカリスマを持つ結城の引力に抗うことができない 。この二人の歪んだ共依存関係が、物語の緊張感の中核をなしている。
真相への追跡
一連の不可解な事件を結びつける存在として結城に疑いの目を向けたのが、警視庁のベテラン刑事・沢木和之(石橋凌)と、16年前の沖之真船島事件の真相を独自に追う新聞記者・牧野京子(石田ゆり子)であった 。
沢木は叩き上げの刑事らしい執念で結城を追跡するが、そのアクションシーンは「もっさりしている」「キレがない」と評されることも多く、映画全体のテンポをやや損なう要因ともなった 。牧野は取材を進める中で事件の核心に近づいていくが、それは自らの命を危険に晒す行為でもあった。
最終計画と結末
物語が進むにつれ、結城の真の目的が単なる復讐ではないことが明らかになる。彼は16年前の事件に関与した政治家や軍関係者を利用して米軍基地に潜入し、全世界を破滅させる威力を持つ「MW」そのものを強奪することに成功する 。
賀来に目的を問われた結城は、「復讐なんかする気はない。それよりMWを使って、世界の人間がどれくらい死ぬか見たいだけだ」と嘯く 。彼の動機は、個人的な恨みを超えた、純粋な破壊衝動と虚無主義にあった。
クライマックスの舞台は、MWを積んで離陸した軍の輸送機内へと移る。
結城はMWを世界中に拡散させようと企むが、彼の行動を先読みした賀来が同じ輸送機に乗り込んでいた。激しいもみ合いの末、賀来は結城を止めるには自らを犠牲にするほかないと悟る。彼は本物のMWの入ったバッグを奪い、結城の目の前で輸送機のドアを開け、MWもろとも空へと身を投じる。
直後、結城が乗った輸送機も追跡していたアメリカ空軍のミサイルによって撃墜され、大爆発を起こす。賀来の自己犠牲と米軍の介入により、事件は解決したかに見えた。
しかし、映画の真のラストは更に衝撃的である。全てが終わり、日常に戻った沢木刑事のもとに、一本の電話が入る。それは死んだと思われていた結城からの電話であった。彼の野望は完全には阻止されておらず、悪魔はまだ生きていることを示唆する不気味な余韻を残し、物語は幕を閉じる。
この結末は、一度は正義が勝利したかのようなカタルシスを観客に与えながら、最後の最後でそれを覆す構成となっている。賀来の自己犠牲は結果的にMWの拡散を防いだものの、諸悪の根源である結城を葬るには至らなかった。
悪が不死鳥のように蘇ることを暗示するこの結末は、続編を匂わせると同時に、悪の根深さと不滅性というテーマを観客に強く突きつける、後味の悪いながらも印象的なものとなっている。
核心的テーマの考察:映画版『MW』が描いたもの、描かなかったもの
映画版『MW』は、原作の持つ複雑なテーマを、より大衆向けのフォーマットに落とし込む過程で、いくつかの重要な変質を遂げている。
「復讐」という名の単純化
映画版は、結城の行動原理を「16年前の事件への復讐」という、観客が理解しやすい枠組みの中に収めている 。これは、商業映画としては当然の判断かもしれない。しかし、この設定は、原作が描いた、理由なき悪、つまり道徳心や良心が完全に欠如した人間の「不気味さ」というテーマを大きく後退させる結果となった。
手塚治虫が描こうとしたのは、共感や理解を拒絶する、根源的で哲学的な「悪の化身」であった。それを「復讐者」という共感可能なキャラクターに変換したことで、原作の持つ最も挑戦的な部分が希釈されてしまったのである 。
破壊 vs 祈り? 形骸化した対立構造
引用元:映画.com
映画のキャッチコピーは「世界を変えるのは、破壊か、祈りか」であった 。これは結城の「破壊」と賀来の「祈り」の対立を象徴している。しかし、劇中において賀来の「祈り」は、結城の圧倒的な悪意と行動力の前ではほとんど無力に描かれる。賀来が神父であるという設定の必然性も弱く、彼の苦悩は内面的なものにとどまり、物語を動かす力にはなっていない 。結果として、この対立構造は十分に機能しているとは言えず、キャッチコピーが掲げた壮大なテーマは形骸化してしまった。
アクション大作への傾倒と犠牲になった人間ドラマ
本作は、冒頭のタイでの大規模なロケやカーチェイスに象徴されるように、従来の日本映画の枠を超えるスケールのアクションサスペンスを目指した意欲作である 。しかし、その派手なアクションシーンに時間を割いた結果、物語の核であるべき結城と賀来という二人の主人公の関係性を深く掘り下げる時間が犠牲になったとの批判が多数存在する 。キャラクターの心理描写が表層的になり、彼らの行動原理に説得力が欠けてしまった。結果として、アクションの迫力と人間ドラマの深みが両立せず、物語全体の完成度を損なうという本末転倒な事態を招いている。
原作漫画との徹底比較:手塚治虫の「禁忌」はどこへ消えたのか
引用元:夜ふかし閑談
映画版『MW』を評価する上で、原作漫画との比較は避けて通れない。そして、その比較によって明らかになるのは、映画が原作の最も重要かつ「禁忌」とされた要素を意図的に排除したという事実である。
最大の相違点:消された同性愛関係
映画版と原作漫画の最も決定的かつ致命的な違いは、結城と賀来の間に存在する同性愛関係が完全に削除されている点である 。原作において、この二人の関係は単なる友情や共犯関係ではない。不良少年であった賀来が、少年時代の結城を性的に虐待した過去があり、それが賀来の生涯にわたる罪悪感と、結城への歪んだ執着の根源となっている 。この倒錯した性的関係こそが、賀来が結城から離れられない理由であり、物語全体の心理的基盤を形成していた。
映画版ではこの関係性が削除されたため、二人の絆は「同じ事件の生き残り」という比較的薄いものに置き換えられ、賀来が結城の凶行を止められない理由の説得力が著しく低下してしまった 。
この改変は、おそらくPG-12というレイティングや、より広い観客層にアピールするための商業的な判断であったと推測される。しかし、この一つの要素を削除したことで、物語の構造全体が崩壊する「ドミノ倒し」のような現象が起きた。原作における二人の関係は、物語という建築物の「キーストーン(要石)」であった。それを取り除いたことで、キャラクターの動機、行動、そして心理描写の全てが説得力を失い、物語全体が脆弱になってしまったのである。
キャラクター設定の根本的な変更
原作からの改変は、二人の関係性だけにとどまらない。
- 賀来裕太郎(巌): 原作での名前は「賀来巌」であり、結城よりも10歳ほど年上の角刈りの男として描かれている 。映画版の若く苦悩する神父という設定とは全く異なり、原作の持つ倒錯した主従関係のニュアンスが失われている。
- 結城美智雄(美知夫): 原作の結城は、目的のためなら老若男女を問わず、自らの美貌と肉体を武器として利用する、より徹底した悪魔として描かれている 。映画版では、この性的な側面がほぼ排除され、彼の「悪」が持つ多層的な魅力が削ぎ落とされてしまった。
これらの改変の結果、映画は「登場人物の設定(ほぼ名前)だけが同じの、別の作品」と評されるに至っている 。
評価と反響:観客と批評家はどう見たか
引用元:Google Play
本作の評価は、観る者の立場によって大きく分かれる傾向にある。これは、本作が原作を知っているか否かで、全く異なる二つの映画として機能してしまうという現象を示している。
絶賛された悪のカリスマ:玉木宏の演技
本作に対する評価の中で、ほぼ唯一、満場一致で肯定的だったのが、主人公・結城美智雄を演じた玉木宏のパフォーマンスである。「のだめカンタービレ」の千秋真一役で見せた爽やかなイメージを180度覆す、冷徹で妖艶な悪役ぶりは「最高」「カッコイイ」「当たり役」と多くの観客から絶賛された 。彼のスクリーン上での圧倒的な存在感と、悪のカリスマ性を見事に体現した怪演が、本作の最大の魅力であったことは間違いない。
原作ファンからの厳しい視線
一方で、手塚治虫の原作漫画の熱心なファンからは、「原作への冒涜」「何もかもがちがう」といった極めて厳しい意見が相次いだ 。彼らは映画を「原作の忠実な映像化」という基準で評価するため、物語の核となるテーマや人間関係が根本から改変されたことへの失望は大きかった。原作ファンにとって、この映画は期待を裏切るものであったと言える。
賛否両論のストーリーと演出
原作を知らない観客からの評価は賛否両論であった。「単純なサスペンスとして楽しめた」という肯定的な声もある一方で 、「ストーリーが分かりづらい」「展開に無理がある」「アクションシーンが冗長で退屈」といった否定的な評価も数多く見られる 。特に、前述した結末の尻切れトンボ感や、映画のダークな雰囲気とflumpoolの爽やかな主題歌とのミスマッチを指摘する声もあった 。
この評価の分裂は、本作の興行成績やレビューサイトの平均点が凡庸な数字に落ち着いた理由を説明している。それは、熱心な原作ファンからの低い評価と、原作を知らない層からのまずまずの評価が混在した結果なのである 。
結論:2009年の『MWームウー』が現代に遺したもの
映画『MWームウー』は、手塚治虫の最も過激で挑戦的な作品を、現代のメジャーなエンターテイメントとして再構築しようとした、極めて野心的な試みであった。そして、玉木宏という俳優に「美しい悪役」という新たな境地を開かせた功績は大きい。
しかし、その製作過程において、原作の持つ「毒」、すなわち物語の魂ともいえる「禁忌」の要素を自ら去勢してしまった。商業的な成功を優先するあまり、作品の根幹をなす「不快だが、物語にとって不可欠な」要素を削除する行為が、いかに物語全体を脆弱にしてしまうか。本作は、漫画原作の実写化におけるその困難さと危うさを象徴する、一つの重要なケーススタディとして記憶されるべきである。
原作の表面的なプロットや設定をなぞるだけでは、その本質を捉えることはできない。映画『MWームウー』は、その痛切な教訓を我々に突きつけている。それは、「破壊か、祈りか」という作中の問いの前に、まず「創造(原作)への敬意とは何か」を問うべきであったという、一つの答えなのかもしれない。







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