ディズニー映画『眠れる森の美女』を観たとき、私たちの心に最も深く刻まれるのは、オーロラ姫の優雅な美しさだろうか。それとも、フィリップ王子の勇敢な姿だろうか。もちろん、それらも物語の重要な要素だ。しかし、多くの人がこの作品を語るとき、主役たち以上に鮮烈な光(あるいは闇)を放つ存在として、一人のヴィランの名を挙げるに違いない。
その名は、マレフィセント。自らを「すべての悪の支配者」と称し、漆黒の衣をまとい、悪魔のような角を持つ魔女。彼女は、ディズニーヴィランの中でも別格の存在感を放ち、公開から半世紀以上経った今なお、私たちを惹きつけてやまない。
近年、アンジェリーナ・ジョリー主演の実写映画『マレフィセント』が公開され、彼女は新たな解釈を得た 。そこでは、元々は心優しかった妖精が、愛する者に裏切られ翼を奪われた結果、復讐心に燃える悲劇のヒロインとして描かれている 。この物語は、ヴィランにも同情すべき過去や人間的な葛藤を求める現代の観客の心を見事に掴んだ 。
しかし、ここで立ち返りたいのは、1959年のアニメーション版が描き出した、あの「純粋な悪」としてのマレフィセントである。なぜ、背景の物語を持たない彼女が、これほどまでに魅力的なのだろうか。
理解不能だからこそ、恐ろしい。その動機の単純さ
アニメ版のマレフィセントがオーロラ姫に呪いをかけた理由は、恐ろしく単純明快だ。
「姫の誕生を祝うパーティーに、自分だけが招かれなかったから」
たったそれだけである。社会的な侮辱への、あまりにも幼稚で不釣り合いな報復。そこには、実写版のような深い絶望や裏切りへの悲しみはない。あるのは、傷つけられたプライドと、底なしの悪意だけだ。この動機の「理解できなさ」こそが、彼女の恐ろしさを際立たせている 。
共感や同情を一切拒絶するその姿勢は、彼女を人間的な感情の尺度では測れない、まさしく「悪の化身」という領域へと昇華させるのだ。
恐怖と美の融合。完成されたデザインとカリスマ
マレフィセントの魅力は、そのキャラクター造形だけではない。伝説的アニメーター、マーク・デイヴィスによって生み出された彼女のデザインは、芸術の域に達している。
中世の宗教画に着想を得たという、炎のように燃え上がる漆黒のローブ、コウモリの羽を思わせる襟、そして悪魔の象徴である角 。その姿は、垂直性を強調したアイヴァンド・アールの背景美術と完璧に調和し、画面に映るだけで空間を支配する。
そして、その威厳を決定づけたのが、声優エレノア・オードリー(『シンデレラ』のまま母役でも知られる)による、冷徹で気品に満ちた声である 。彼女の声は、マレフィセントに単なる悪役ではない、一種の「邪悪な女王」としての絶対的なカリスマを与えた。
ドラゴンに変身し、灼熱の炎を吐くクライマックスの姿は圧巻だが、彼女の真の恐ろしさは、静かに、そして冷ややかに呪いの言葉を紡ぐ、その優雅な立ち振る舞いの中にこそある。
「純粋悪」が与えるカタルシス
実写版『マレフィセント』は、彼女の行動に「理由」を与え、私たちに共感の道筋を示してくれた。それは現代的な物語の作法として、見事な再解釈だったと言えるだろう。
しかし、その一方で、理由付けされた悪は、その神秘性をいくらか失う。アニメ版のマレフィセントは、なぜ悪なのかを説明しない。彼女はただ、悪としてそこに存在する。その潔さとブレのなさに、私たちはフィクションならではの魅力を感じるのではないだろうか。
現実の世界では、善と悪の境界は曖昧で、物事は複雑に絡み合っている。そんな中で、一切の言い訳をせず、自らの邪悪さを貫き通すマレフィセントの姿は、ある種の清々しささえ感じさせる。彼女は、物語が機能するために必要不可欠な「絶対的な悪」という役割を完璧に演じきっている。その機能美こそが、私たちが彼女から目を離せない理由なのかもしれない。
実写版がマレフィセントを「誤解されたヒロイン」として私たちの隣に引き寄せてくれたのだとすれば、アニメ版のマレフィセントは、決して手の届かない、孤高の玉座から私たちを見下ろしている。そして、その距離感こそが、彼女をディズニー史上最も魅力的で、最も完成されたヴィランたらしめているのである。

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