1931年に作られたドイツ映画『M』は、映画の歴史において重要な作品として語り継がれている。フリッツ・ラング監督が初めて音声付き映画(トーキー)に挑戦した作品であり、サイコスリラーというジャンルの始まりとなった映画である。
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原題は「M – Eine Stadt sucht einen Mörder」(M ─ ある街が殺人者を探す)という意味で、連続殺人犯を追う警察と犯罪者たちの緊迫した物語が展開される。
映画『M』の基本情報
この映画は1931年5月11日にドイツで公開され、日本では1932年4月に公開された。上映時間は117分である。
監督と脚本はフリッツ・ラングが担当し、脚本には当時ラングの妻だったテア・フォン・ハルボウも参加している。
ドイツ語で作られた本格的な音声付き映画として、映画の歴史における重要な転換点となった作品である。
主な登場人物とキャスト
ピーター・ローレ
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主人公は連続殺人犯のハンス・ベッケルトである。この役を演じたのはピーター・ローレで、彼はこの映画で世界的に有名になった。ベッケルトは見た目は普通の男性だが、心の中に抑えられない衝動を持つ複雑な人物として描かれている。
- ハンス・ベッケルト:ピーター・ローレ – 連続少女殺人犯
- カール・ローマン警部:オットー・ベルニッケ – 事件を追う殺人課の刑事
- デア・シュレンカー:グスタフ・グリュントゲンス – 犯罪組織のボス
- ベックマン夫人:エレン・ウィドマン – 殺された少女の母親
- エルシー・ベックマン:インゲ・ラントグート – 被害者の少女
物語の舞台と時代背景
物語の舞台は1930年代のベルリンである。当時のドイツは経済的に苦しい時期で、社会全体に不安が広がっていた。そしてナチスが力を持ち始めていた時代でもあった。
映画評論家のロジャー・イーバートは、この映画には当時のドイツ社会への批判が込められていると指摘している。
物語のあらすじ(ネタバレあり)
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映画は、子供たちが遊んでいる場面から始まる。子供たちは「男が来てナイフで切り刻む」という怖い歌を歌っている。その頃、ベルリンでは幼い少女ばかりを狙った連続殺人事件が起きていた。
ある日、小学生の少女エルシー・ベックマンが学校から帰る途中、黒い服を着た男に声をかけられる。男は風船を買ってあげて、優しく話しかける。盲目の風船売りは、その男がエドヴァルド・グリーグの「山の魔王の宮殿にて」という曲を口笛で吹いているのを聞く。
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エルシーの母親は娘の帰りを待つが、エルシーは二度と帰ってこなかった。空き地には彼女のボールが転がり、電線には男が買った風船が引っかかっているだけである。エルシーは殺人犯の新しい犠牲者になってしまったのだ。
警察は必死に捜査するが、手がかりは見つからない。カール・ローマン警部たちは様々な方法で捜査を続けるが、犯人を見つけることができない。
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警察の捜索は犯罪者たちの世界にも及び、頻繁に取り締まりが行われるようになる。これに怒った犯罪者たちは、自分たちの商売が邪魔されることに腹を立てる。
犯罪組織のボス、シュレンカーは犯罪者たちの会合を開き、自分たちで犯人を捕まえる計画を立てる。彼らは街中にいる乞食や浮浪者のネットワークを使って、怪しい人物を見張ることにする。
面白いことに、映画の中盤では、警察の会議と犯罪者たちの会合が同時に描かれる。ある人が話している言葉を、別の場所にいる人がそのまま続けて話すという演出は、当時としては画期的な方法だった。
やがて、盲目の風船売りが再びあの口笛を耳にする。彼は仲間に知らせ、犯罪者たちのネットワークが動き出す。一人の男が追跡され、浮浪者の機転で背中に白いチョークで大きく「M」の文字が書かれる。この「M」はドイツ語で殺人者を意味する「Mörder」の頭文字である。
自分の背中に「M」の印が付けられていることに気づいた男、ハンス・ベッケルトは恐怖に駆られて逃げる。彼はオフィスビルに逃げ込むが、犯罪者たちに建物を囲まれる。犯罪者たちは建物に侵入し、徹底的に探し回る。ベッケルトは屋根裏部屋に隠れるが、最終的には見つかり、捕まってしまう。
ベッケルトは古い工場のような場所に連れて行かれ、そこで犯罪者たちによる裁判が開かれる。数百人もの犯罪者たちが集まり、彼の運命を見届けようとする。ベッケルトには弁護士が付けられるが、群衆の怒りは激しく、彼への制裁を求める声が高まる。
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追い詰められたベッケルトは、自分の犯罪について語り始める。彼は涙を流しながら、自分は犯罪を犯したくて犯しているのではなく、抑えられない衝動に支配されていると訴える。
頭の中で声が響き、それに従わざるを得ないのだと主張する。彼は「お前たちは金のために犯罪を犯すが、やめようと思えばやめられる。しかし私には選択肢がない。私は自分自身から逃れることができないのだ」と叫ぶ。この場面は映画史に残る名場面であり、ピーター・ローレの演技力が光っている。
しかし、群衆の怒りは収まらない。まさに私的な制裁が行われようとしたその時、警察が工場に突入する。ローマン警部率いる警察は、犯罪者たちの情報をつかんでおり、ベッケルトを救出する。そして映画は正式な裁判が始まろうとする場面で終わる。
被害者の母親たちが法廷に座り、裁判官の声が響く中、映画は幕を閉じる。最後に「これでは子供たちを守れない。もっと注意深く見守らなければならない」という母親の言葉が語られ、観客に強いメッセージを残す。
制作の背景と実在の事件
この映画の脚本はフリッツ・ラングと妻のテア・フォン・ハルボウによって書かれた。主人公の殺人犯は、「デュッセルドルフの吸血鬼」と呼ばれた実在の連続殺人犯ペーター・キュルテンをモデルにしたと言われている。キュルテンは1929年から1930年にかけてドイツで多くの殺人を犯し、社会を震え上がらせた人物である。
しかし、ラング自身はインタビューで、キュルテンだけがモデルというわけではないと否定している。映画の殺人犯は少女だけを標的にしているが、実際のキュルテンは老若男女を問わず殺害しており、犯罪の種類が異なる。ラングは、キュルテンを含む当時のドイツ社会を震え上がらせた複数の殺人鬼たちが製作のヒントになったと述べている。
音と映像の革新的な手法
『M』はフリッツ・ラングが初めて作った音声付き映画であり、音の使い方が非常に革新的である。
映画全体を通して背景音楽は使われていないが、効果音と口笛が効果的に使われている。特に、殺人犯ベッケルトが好んで吹く口笛は、エドヴァルド・グリーグが作曲した「山の魔王の宮殿にて」である。この不気味なメロディは、殺人犯の存在を示す象徴的な音として機能し、観客に強い印象を与える。
また、映像面でも数々の革新的な手法が使われている。前に述べた警察の会議と犯罪者たちの会合を同時に描き、セリフを引き継がせる手法は、編集技術の新しい可能性を示した。
カメラワークも独創的で、高いところから見下ろすショット、窓越しの撮影、影を効果的に使った表現など、後の映画に大きな影響を与えた技法が随所に見られる。
映画のテーマ
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『M』は単なるサスペンス映画ではなく、深いテーマを持った作品である。
まず、法律と正義の問題が中心的なテーマとなっている。
警察という公的な組織と、犯罪者という非合法な組織の両方が犯人を追い詰めるが、どちらが本当の正義なのかという問いが投げかけられる。犯罪者たちによる私的な制裁と、国による正式な裁判のどちらが正しいのか。映画は明確な答えを示さず、観客に考えさせる。
また、精神疾患や犯罪心理の問題も扱われている。ベッケルトが自分の犯罪を「抑えられない衝動」によるものだと主張する場面は、責任能力や刑罰の意味について考えさせられる。
さらに、マスメディアの役割も描かれている。新聞報道によって事件が大きく取り上げられ、市民の間にパニックが広がる様子は、現代のメディア社会にも通じる問題である。
映画史における重要性と影響
『M』はサイコスリラー映画の始まりとして、映画の歴史において非常に重要な位置を占めている。連続殺人犯を主人公とし、その心理を描いた本作は、後の『サイコ』(1960年、アルフレッド・ヒッチコック監督)や『羊たちの沈黙』(1991年、ジョナサン・デミ監督)など、多くのサイコスリラー作品に影響を与えた。
また、フィルム・ノワール(暗い雰囲気の犯罪映画)の成立にも大きな影響を与えた。暗い照明、影を効果的に使った映像表現、都市の暗い部分を描く姿勢など、後のアメリカのフィルム・ノワール作品に共通する要素が既に本作に見られる。
編集技術や音の使い方も、後の映画製作に大きな影響を与えた。特に、音を効果的に使って緊張感を生み出す手法は、現代の映画でも広く使われている。
ピーター・ローレのキャリア
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本作で主演を務めたピーター・ローレは、この役で世界的に知られるようになった。彼の繊細で不気味な演技は高く評価され、後にハリウッドに招かれた。
ローレはナチスの台頭によりドイツを離れ、まずパリに逃れ、その後アメリカに渡った。ハリウッドでは『マルタの鷹』(1941年)や『カサブランカ』(1942年)などの名作に出演し、独特の存在感を示した。
現代における評価
『M』は公開から90年以上が経過した現在でも、世界中で高く評価されている。映画批評サイトでは高い評価を得ており、映画史の名作リストには必ず名前が挙がる作品である。
現代の観客がこの作品を見る意義は大きい。まず、映画表現の進化を知ることができる。音声付き映画の初期の作品でありながら、音と映像の革新的な使い方は現代でも通用する。また、犯罪と正義、精神疾患と責任、マスメディアの影響など、現代社会にも通じるテーマが描かれている。
さらに、歴史的な視点からも重要である。ナチス台頭前のドイツ社会の雰囲気を感じ取ることができ、その後のヨーロッパの歴史を考える上でも参考になる。
まとめ
1931年のドイツ映画『M』は、フリッツ・ラング監督の初めての音声付き映画であり、サイコスリラーというジャンルの始まりとなった名作である。ベルリンを舞台に、連続殺人犯を追い詰める警察と犯罪者たちを描いた本作は、革新的な映像表現と音の技術、深いテーマ性によって、映画の歴史に大きな足跡を残した。
ピーター・ローレの名演技、特にクライマックスの訴えは、見る者の心に強く残る。法律と正義、犯罪と精神疾患、マスメディアと群衆心理など、現代にも通じる普遍的なテーマが描かれており、90年以上が経過した今でもその価値は色褪せない。
サイコスリラーやフィルム・ノワールに興味がある人、映画の歴史を学びたい人、そして人間の心の暗い部分を描いた作品に関心がある人にとって、『M』は必見の作品である。この作品を見ることで、映画表現の可能性と、社会批判を込めた芸術作品の力を実感することができるだろう。









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