芸術家はミューズに壊されて完成する――手塚治虫原作『ばるぼら』映画版の主題を読む

「漫画の神様」手塚治虫が1973年から74年にかけて描いた大人向け漫画『ばるぼら』。その複雑で独特の作風から長年「映像化不可能」とされてきた同作を、手塚の実子・手塚眞が実写映画化した。

出典:映画.com

主演は稲垣吾郎と二階堂ふみ。撮影監督にはウォン・カーウァイ作品で世界的に知られるクリストファー・ドイルを迎え、日本・ドイツ・イギリスの合作で完成した本作は、2019年に手塚治虫生誕90周年記念としてワールドプレミアを迎え、翌2020年11月に日本公開となった。

目次

作品基本情報

邦題ばるぼら
製作年2019年(日本公開:2020年11月20日)
製作国日本・ドイツ・イギリス合作
上映時間100分
レーティングR15+
配給イオンエンターテイメント
監督手塚眞
原作手塚治虫『ばるぼら』(小学館「ビッグコミック」連載)
脚本黒沢久子
撮影監督クリストファー・ドイル
照明和田雄二
編集手塚眞
音楽橋本一子

キャスト

役名俳優名役柄
美倉洋介稲垣吾郎耽美派の人気小説家。異常性欲に悩む
ばるぼら二階堂ふみ謎のフーテン少女。芸術のミューズ
四谷弘行渋川清彦ライバル小説家
甲斐加奈子石橋静河美倉の周囲にいる女性
里見志賀子美波政治家の娘、後に美倉の妻となる
里見権八郎大谷亮介政治家
紫藤一成ISSAY美倉の知人
須方まなめ片山萌美美倉を取り巻く女性
ムネーモシュネー渡辺えり占い師・予言者的存在

原作漫画『ばるぼら』について

映画を語るためには、まず原作を知らなければならない。漫画版『ばるぼら』は、1973年から1974年にかけて小学館の「ビッグコミック」に連載された、手塚治虫による大人向け問題作だ。手塚治虫自身は、この作品のテーマを「芸術のデカダニズムと狂気にはさまれた男の物語」と表現している。

連載時期は、手塚治虫にとって個人的に極めて苦境の時代だった。連載作品が相次いで不調となり、自ら経営していたアニメ会社が倒産の危機に瀕するなど、人生の底を這うような時期である[6]。その心境が作品に色濃く反映されており、主人公・美倉洋介には手塚自身の反映が見出せるという指摘もある。

「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、たれ流した排泄物のような女」── 手塚治虫『ばるぼら』原作冒頭より、ばるぼらの紹介文

この衝撃的な一節がばるぼらの紹介文である。しかし読み進めるほどに、彼女が単なる「底辺の女」ではなく、芸術家にとっての女神(ミューズ)であり、同時に魔女でもある存在であることが明らかになる。彼女の正体は「芸術の女神・ミューズの末娘」。そのオカルト的・神話的設定が物語に独特の深みを与えている。

また、E.T.A.ホフマンの幻想文学との類似性を指摘する声もある。18〜19世紀に活躍した「幻想文学の奇才」の系譜に、手塚治虫が漫画というメディアで応えた野心的な作品といえよう。


あらすじ――新宿の闇に落ちた作家と魔女の物語【ネタバレ】

出会い:都会が排泄した女

出典:シネマトゥデイ

耽美派の人気小説家でありながら、異常な性癖に悩まされている美倉洋介(稲垣吾郎)は、新宿駅の地下通路でアルコール依存症のフーテン娘・ばるぼら(二階堂ふみ)を拾った。大酒飲みで口の悪いばるぼらは「先生、もっとマシな話書きなよ」などと毒を吐きながら美倉の部屋に居着く。追い出そうとするが、なぜか美倉はできない。

不思議なことに、ばるぼらが傍にいると美倉の筆は動き出す。彼女は芸術家の霊感を呼び起こす存在――ミューズそのものであった。

幻覚と魔女の証明

美倉はこの時期、エロティックな幻覚に悩まされていた。マネキンや犬が美女に見える異常な妄想。しかし、ばるぼらが側にいる時だけそれが消える。ばるぼらは、美倉をそんな幻想から救い出す存在でもあった。

やがて美倉の周囲では、ばるぼらをめぐる不可解な出来事が積み重なっていく。自堕落に見えた彼女の行動の裏に、何らかの意図と力が宿っていることが少しずつ輪郭を帯びてくる。

さらに美倉の担当編集者が部屋の中に針の刺さった人形を発見したことをきっかけに、ばるぼらがブードゥーの呪術を使う魔女であるという確信が美倉の中で固まっていく。

ムネーモシュネーと黒ミサの結婚式

ばるぼらをめぐる世界はさらに深みへと引き込まれる。ばるぼらが「おっかさん」と呼ぶ謎の女・ムネーモシュネー(渡辺えり)が登場する。ギリシア神話において芸術を司るミューズたちの母がムネーモシュネーであり、記憶を神格化した女神であることが作中でも説明されている。彼女は新宿の裏通りで骨董屋を営む怪人物だ。

美倉はばるぼらとの結婚を決意し、ムネーモシュネーに婚姻の承認を求める。ムネーモシュネーは酒を酌み交わしながら結婚を認めるが「今から一週間、ばるぼらと会わない。そして結婚のことは誰にも話さない」という条件を出した。

しかし1週間後に始まった結婚の儀式は、尾行していた権八郎の秘書に通報され、警察が踏み込んで中止となる。大麻の所持・使用で逮捕された美倉には執行猶予がついたが、連載などの仕事をすべて失う結果となった。

その結婚式の光景は黒魔術そのものだった。全員全裸で参列する中で式が進み、不思議な薬物の吸引が強要される、黒ミサ式の儀式であった。

転落と再会、そして最期

やがて美倉はばるぼらと再会し、二人は社会的なすべてを捨て山荘へ向かう。山荘でばるぼらは頭を強く打ち、そのまま死んだも同然の状態に陥る。美倉はばるぼらの傍らで小説を書き続ける。

そしてラストシーン、街には小説『ばるぼら』のベストセラーを告げる広告や宣伝物があふれている。美倉自身のその後は明示されない。

出典:Cafe mirage

そしてばるぼらは再び新宿の地下街に姿を見せる。都会の排泄物のような女は、一人死んだところでまた一人生まれてくるのか。そもそも彼女は不老不死の存在なのか。ほとんど情報は与えられないまま、幕は下りる。


キャスト考察

稲垣吾郎の「内向きの狂気」

稲垣吾郎は外面を気取って内面に狂気を秘めた作家の役がよく似合っている。傍目には品があっておっとりした雰囲気の彼が美倉として動くところに色気があった。表情に感情を出さないポーカーフェイスがこの役には絶妙にはまっており、「何を考えているかわからない男」の不気味さを終始体現していた。耽美派の知識人という設定を体で理解した演技といえる。

二階堂ふみの「野良猫的魅力」

ばるぼらの配役ひとつで映画は作品の体をなさなくなるリスクもあったが、彼女の好演が光った。一見薄汚い野良猫のようでありながら、その精悍さと気まぐれな言動、そして若さと美しさで男を翻弄するフーテン娘。裸のからみもボディ・ダブルかと思われたが本人の体当たりの演技であり、映像的にも美しく、エロスにも品格がある。

ばるぼらというヒロインは、女性らしすぎても逆に女性らしさが欠如しすぎても成立しない絶妙なところにいる存在だ。そのため中性的な魅力を出せる二階堂ふみは欠かせないピースだった。

渡辺えりの怪演

ばるぼらと結婚しようとする美倉に組織のしきたりを教え、怪しげな契約で縛るムネーモシュネーを演じた渡辺えりは、原作以上にインパクトがあり、存在感で圧倒した。このキャラクターが実写で成立するかどうかは本作最大のリスクのひとつだったが、渡辺えりの怪演によって見事に乗り越えられた。


主題考察――芸術と破滅の二律背反

ミューズとは何者か

本作の核心は「芸術家とミューズの関係」に集約される。ばるぼらは美倉に創作の霊感を与える一方で、彼を社会的に破壊していく。仕事を失い、逮捕され、世間から消えていく。しかしそれでも美倉は彼女から離れられない。

手塚治虫はこの作品を「芸術家は芸術のためにだけ心を捧げればよい。政治とか金とかにうつつを抜かしているようじゃ、そいつはおしまいだ」という信念のもとに描いた。傑作が残るならば作者がどうなろうと構わない、という思想がこの物語の底流にある。

連載当時、手塚は自身が経営する出版社の相次ぐ倒産という大変な時期にあったが、『ばるぼら』は一度も休載することなく最後まで連載が続けられた。この作品は、あの時期の手塚治虫自身の苦悩と芸術への執念を投影したものとして読むことができる。

映画版ラストと原作との差異

映画版と原作漫画の最も異なる点は結末にある。原作では、美倉は山荘で死の間際に小説『ばるぼら』を書き上げ、それが大ベストセラーとなる。作者は名乗り出ることなく老い果てるが、「作品が残った」という意味でこれはハッピーエンドであると解釈されてきた。

映画版ではそのような明確な「傑作の誕生」は描かれない。美倉はただ山荘で死を待つように書き、老いた廃人として終わる。映画版の「ばるぼら」という存在は芸術家を「堕落」させる存在であり、彼女が美倉の最期の瞬間に書かせたのは傑作とはほど遠い作品だったのではないかと思わせる。

街にあふれる『ばるぼら』の広告と、死んだはずのばるぼらが地下街で再び酒を飲んでいる映画のラストシーン。その対比は「作品だけが生き残り、作者は消えた」という構図を視覚的に突きつけると同時に、ばるぼらという存在が死をも超えた不死の女神であることを静かに示唆している。彼女は次の芸術家を求めて、また都市の暗がりに降り立つのだ。

ばるぼらは幻だったのか

出典:ナタリー

観客の多くが抱く疑問がある。ばるぼらはそもそも実在する存在なのか、それとも美倉の妄想・幻覚の産物なのかという問いだ。異常性欲に悩み幻覚を見る美倉の主観で進む物語において、ばるぼらもまたそういった幻影のひとつだという解釈は成立する。

しかしラストシーンで、ばるぼらは死後に再び地下街に姿を現す。これが幻でないとすれば、彼女はミューズ=不死の女神として、次の芸術家を求めて再び都市の暗がりに降り立ったことになる。どちらの解釈も排除しない作りになっており、これが本作の最大の謎として残り続ける。


映像美と演出の評価

撮影監督クリストファー・ドイルはウォン・カーウァイ監督作品の『花様年華』『欲望の翼』やホドロフスキー監督の『エンドレス・ポエトリー』などを手がけた名手だ。その映像は耽美かつ官能的で、退廃の匂いを纏った独特の質感を本作にもたらしている。

一方で批判もある。本作には昭和の新宿の匂いがどうしても必要に思える。現在の新宿はクリーンすぎる。予算度外視で昭和の新宿界隈を再現できたら最高だった。ばるぼらが西新宿の舗道を歩くシーンも、ヌケに東京モード学園のコクーンタワーが写っているだけで違和感が否めない。これは実写化においての根本的なジレンマでもあった。


総括――「映像化不可能」の意味を問い直す

本作が「映像化不可能」と言われた理由は、物語の複雑さだけにあったのではないだろう。ばるぼらという存在は実体を持ちすぎると神秘性を失い、映像として描かれた瞬間に解釈が固定化されてしまうという根本的な困難がある。原作が持つ「あらゆる解釈を宙吊りにしたまま読者に委ねる」という構造は、映像では維持しにくい。

それでもなお、手塚眞はクリストファー・ドイルと組むことで「答えを出さない映画」を作ることに挑んだ。物語に古さがなく、アヴァンギャルドな空気が似合う風情すらあって、手塚治虫作品のテーマの普遍性を実感できる。

芸術家とミューズの関係、創造と破滅の不可分性、社会的成功と純粋な芸術衝動の相克。これらのテーマは手塚治虫が1970年代に描いた当時と何ら変わらず、今日にも刺さる。稲垣吾郎と二階堂ふみという組み合わせが持つ「外側は整っているのに内側が壊れている」という特殊な質感も、本作の雰囲気に完全に一致している。

評価は分かれる作品だ。Filmarksの平均スコアは3.1点前後と決して高くはない。だがそれは、この映画が「わかりやすく感動させる」ことを最初から目指していないからでもある。暗闇の中で何かを掴もうとして、掴めないまま終わる。その不全感こそが『ばるぼら』という作品の本質であり、それを映像でも再現したという意味において、本作は誠実な映画化と言えるだろう。


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