「お互い50になっても独身だったら」と呑みながら話した夜――『平場の月』に重ねる私の物語


『平場の月』は、第32回山本周五郎賞を受賞した朝倉かすみの同名小説を映画化した、”50代の初恋の続き”を描く大人のラブストーリーである。​ 中学時代の同級生だった男女が、50歳になって再会し、地味でささやかな日常の中で、もう一度「誰かと生きること」を考え直していく物語として紹介されている。​

目次

映画『平場の月』の基本情報

出典:映画.com

原作は朝倉かすみ『平場の月』(光文社文庫)である。監督は『花束みたいな恋をした』の土井裕泰、脚本は『ある男』の向井康介が担当し、音楽は出羽良彰、主題歌は星野源「いきどまり」である。​​ 主人公の青砥健将を堺雅人、初恋の相手・須藤葉子を井川遥が演じ、坂元愛登、一色香澄、中村ゆり、でんでん、吉瀬美智子、宇野祥平、大森南朋らが脇を固める布陣になっている。​

物語は、離婚して地元に戻り印刷会社で働く青砥が、母の入院する病院の売店で中学時代の同級生・須藤と再会するところから始まる。​ そこから二人は居酒屋で他愛ない話を重ね、「その場しのぎでもちょうどよく幸せになる会」を続けようと約束し、やがて互いの部屋を行き来するような”恋人とも友人ともつかない”関係へと進んでいく。​

予告編から受け取った印象

私は現時点で本編はまだ観ておらず、Youtubeなどで公開されている特報と主題歌入り予告だけを何度も繰り返し観ている段階である。​​ 短い映像の中で、「おまえ、あのとき、なに考えてたの?」「夢みたいなことをね。ちょっと」というやり取りや、アパートの窓辺から月を見上げる須藤の横顔が、若い恋愛映画とはまったく違う温度の”高すぎない熱”を感じさせる。​

劇場に足を運びたい気持ちは山ほどあるのだが、今回はあえて配信を待とうと決めている。 50代の再会物語を、生活の延長線上で、自分の部屋の小さな画面で噛みしめたい――そんな気分が強くて、「映画館で一度きり」ではなく「配信で何度か見返す」前提で出会いたい作品だと直感した。​

私のエピソードと重なるところ

この映画の設定に惹かれるのは、私自身も50代で、20年近く付き合いのある独身の女性の友人がいるからかもしれない。 コロナ前まではよく呑みに行っていたのだが、その後は私の病気などもあって、あまり一緒に呑めなくなった。

それでも不思議なもので、「あ、最近元気かな?」とふと彼女のことを考えると、偶然かどうかわからないのだが、そのタイミング――1日違いくらい――で彼女が店に来ることがよくある。

お互いの生活には踏み込みすぎず、でも縁が切れるほどには離れもしない――映画の青砥と須藤の関係性の説明を読むたびに、その友人の顔が自然と浮かんでくる。​

一度だけ、呑みながら「お互い50になっても独身だったらどうする?」と冗談めかして話したことがあった。 その会話を彼女が覚えているかどうかも確かめたことはないが、予告編で映る”35年越しの初恋”というコピーを見ると、こちらの勝手な記憶ばかりが少し熱を帯びてよみがえってくる。​

誕生日にだけ贈る花

私には「誕生日に花を贈る」相手がひとりだけいる。 花束ではあるが、やりすぎない程度に、それでいてまあまあのボリューム――部屋の片隅にそっと置けるくらいの、ささやかな花を、毎年こっそり手配している。その相手こそ、先ほどの20年来の友人である。

以前はビールも一緒に贈っていたのだが、彼女の健康のことを考えて、今は控えるようにしている。
この年齢になって、誕生日をわざわざ祝う相手は、その人だけになった。
私の中ではそれが、告白ともプロポーズとも違う、もっと曖昧で長期戦な「友人以上でいてほしい」という意思表示になっているのだと思う。

『平場の月』の二人もまた、「恋人です」と胸を張るより前に、日々のささやかな行為や時間の共有で、じわじわと関係を育てていく。​ 予告編に流れる星野源「いきどまり」の穏やかなメロディと、堺雅人と井川遥の視線の交差を見ていると、私が花を選ぶときの、あの少しだけくすぐったい気持ちが、そのまま画面の中にあるように感じられる。​​

「好きだから、言わない」という選択

以前、『最後から二番目の恋』で中井貴一が言っていた言葉に共感した覚えがある。詳しくは覚えていないが、


「その人のことを好きだから言えないんです。言って、もしその関係性が壊れると思ったら怖いんです。今のまま、ずっと一生、友人関係でいたいんです」


――そんなニュアンスのセリフだった気がする。 その時にまっさきに頭に浮かんだのが彼女だった。

正直に言えば、もし彼女がこの記事を読んでしまったらと思うと少し恥ずかしい。でも彼女がこの記事を見ても、おそらく何も言わないだろうし、私もおそらく何も言わないだろう。

もし私から言うとしたら、どんな時だろう。

急にものすごく寂しくなった時か(ずっと一人暮らしなので今更だが・・・)、何かの理由で別れなければならない時か――いや、そんな時に言っても重荷になるだけか・・・

ふと思い出すのは、『うる星やつら』の完結編のラストである。

ラムとあたるの会話――

ラム「一生かけても好きって言わせてみせるっちゃ!」

あたる「今際の際に言ってやる」

今際の際にもしそばにいたら、明るく言ってみるかな(笑)。

配信で出会うまでの”待ち時間”として

本当は今すぐ劇場に走って、青砥と須藤の行く末を見届けたい。けれど今回は、予告編とインタビュー記事、原作の紹介文などを読みながら、あえて”待つ時間”を楽しんでいる。

​ 50代になってからの再会と恋愛を描いた物語に、私の長年の友人との関係や、誕生日だけの小さな花という習慣を重ねながら、「自分ならどうするだろう」と考えるには、この待機期間もちょうどいい余白に思えるからである。

配信が始まったら、きっと部屋の灯りを少し落として、彼女に贈った花と同じような色の小さな花をテーブルに置いて・・・なんてことはしないだろうが、とりあえず一人でこの映画を観るつもりだ。

そのとき、私の中の”平場の月”がどんなふうに見えるのか――今はその瞬間を楽しみにしながら、予告編だけを何度も巻き戻しているところである。


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