100年前の映画を観るとき、私はいつも少しだけ身構える。
映像は荒れ、テンポは現代のそれとは違い、演技も芝居がかって見える。
それでも、この作品だけは違った。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)を見直した夜、私は言葉にならない“沈黙”のようなものに包まれたのである。
最初に心をつかまれたのは、画面の“静けさ”であった。
港町ヴィスボルクの穏やかな風景。その背後に、薄い膜のような不安が漂っている。
そこへ、遠くトランシルヴァニアから“影”がやってくる。
オルロック伯爵。彼は怪物というより、世界のほころびから滲み出た“異物”そのものであった。
ジャンプスケアも音楽の高鳴りもない。
ただ、伯爵の姿が画面に現れるだけで、空気の温度が下がる。
まるで部屋の隅に置かれた古い家具が、ふとこちらを見つめ返したような、そんな感覚に近い。
物語を丁寧に追わなくても、映像の隙間から伝わってくるものがある。
港町に広がる疫病の恐怖。
エレンの瞳に宿る、言いようのない予感。
トーマス・ハッターが帰還したときに漂う“取り返しのつかなさ”。
そうしたディティールをつないでいくと、この映画は単なる怪奇譚ではなく、
人が誰かを待つときに抱える不安の象徴のように思えてくる。
愛する人を思うがゆえに感じる、小さな違和感。
それがいつのまにか形を持ち、影となり、家の中に入り込んでしまう。
私は、この映画を“恐怖”よりも“感覚”として受け取った。
影の伸び、光の跳ね返り、静まり返った廊下。
そのどれもが、観る人の心の奥に沈んでいくように作用する。
100年経っても色あせない理由は、ここにあるのだろう。
そして、ラスト。
エレンが見せる決意と、その結果として訪れる夜明けは、悲劇であると同時に、どこか救いを感じさせる。
映画全体に漂う“不可避の運命”は、視聴後もしばらく胸に残り、
明け方の光のような余韻として静かに続いていく。
私はこの作品を観るたび、時代を超えて触れてくる“影の手触り”に惹かれる。
恐ろしくもあり、美しくもあり、そして何より、人間の心の隙間を丁寧に照らしてくれる。
そんな映画である。
静かな夜に、ひっそりとページをめくるような気持ちで読んでもらえたら嬉しい。


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