映画の歴史を永遠に変えた一作『戦艦ポチョムキン』(1925) – あらすじからモンタージュ理論、史実との違いまで徹底解説

目次

序論:なぜ『戦艦ポチョムキン』は今なお語り継がれるのか

1925年にソビエト連邦で製作されたセルゲイ・エイゼンシュテイン監督によるサイレント映画『戦艦ポチョムキン』は、単なる歴史的遺物ではない。それは映画言語そのものの基礎を築いた、映画史における最重要テクストの一つである。英国映画協会の『Sight&Sound』誌が10年ごとに発表する「映画史上最高の作品ベストテン」の常連であり続け、1958年のブリュッセル万国博覧会では「世界映画史上の傑作12選」の第1位に輝くなど、その評価は一世紀近くにわたり揺るぎない 。

この作品の重要性は、何を描いたかという主題以上に、それをいかにして描いたかという表現方法にある。

本作は、ロシア革命の神話を称揚する強力な政治プロパガンダ映画であると同時に、後世のあらゆる映像作家に影響を与えた革命的な芸術作品でもあるという、二重のアイデンティティを持つ 。海軍戦艦で起きた反乱というスリリングな物語、映画文法を根底から覆した「モンタージュ理論」の実践、そして観る者を震撼させる「オデッサの階段」の場面と史実との驚くべき乖離、ブライアン・デ・パルマをはじめとする無数の映画監督たちが捧げたオマージュ。これらすべてが、『戦艦ポチョムキン』という作品の多層的な魅力を形成している 。

本作の不朽の価値は、一つの中心的なパラドクスから生まれている。それは、特定の政治的目的のために計算され尽くしたプロパガンダでありながら、同時に時代や国境を超えて普遍的な芸術作品としての地位を獲得したという点である。このパラドクスを理解することこそ、映画というメディアが持つ根源的な力を解き明かす鍵となる。本稿では、この不朽の名作の全貌を、詳細なあらすじから革新的な技法、歴史的背景、そして後世への影響に至るまで、徹底的に解剖していく。

第一部:作品の基本情報と歴史的背景

1-1. 作品データ一覧

まず、本作の基本的な情報を一覧で示す。製作から約100年が経過し、音楽や上映時間には複数のバージョンが存在するが、最も広く知られている情報を中心にまとめた。

項目詳細
原題Броненосец «Потёмкин» (Battleship Potemkin)
製作国ソビエト連邦
製作年1925年
監督・脚本・編集セルゲイ・エイゼンシュテイン
出演アレクサンドル・アントノーフ、グリゴリー・アレクサンドロフ、ウラジミール・バルスキー 。エイゼンシュテイン自身も神父役でカメオ出演している 。
音楽エドムント・マイゼル (1926年版)、ニコライ・クリューコフ (1950年発声版)、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ (1976年版) など複数のバージョンが存在する 。
上映時間約66分~75分(バージョンにより異なる)
日本初公開1967年10月4日

1-2. 時代背景:第一次ロシア革命の渦中で

本作の舞台は、1905年のロシア帝国である。この年は、ツァーリ(皇帝)による専制政治に対する民衆の不満が爆発した「第一次ロシア革命」の年として知られる 。革命の引き金となったのは、日露戦争の惨憺たる敗北、とりわけ日本海海戦におけるバルチック艦隊の壊滅による国威の失墜と、首都ペテルブルクで発生した「血の日曜日事件」であった 。この事件では、皇帝への平和的な請願を行っていた非武装の労働者たちに軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した。

血の日曜日事件(アンジェロ・アゴスティーニ画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

こうした社会不安と革命的気運の高まりを背景に、本作はソビエト政府の依頼により、「第一次ロシア革命20周年記念」作品として製作された 。その目的は明確であり、歴史上の反乱事件を題材に、労働者と兵士が連帯して圧政を打ち破るという共産主義の理想を国内外に知らしめるための、強力なプロパガンダであった 。

映画の芸術的選択は、この政治的使命と分かち難く結びついている。ソビエト国家が求めたのは、単なる歴史の記録ではなく、一つの反乱をプロレタリアートによる必然的な勝利の象徴へと昇華させた「神話」の創造であった。ありのままの現実を描くだけでは、この神話的昂揚感は生まれない。理論家でもあったエイゼンシュテインは、観客の感情と知性に直接働きかける必要性を理解していた。

その結果、彼は従来の物語作法を放棄し、衝撃的で感情に訴えるイメージを連続的に衝突させる「アトラクションのモンタージュ」という革新的な手法を編み出すに至る。つまり、プロパガンダという政治的要求が、本作の芸術的急進性を生み出す直接的な触媒となったのである。

第二部:【完全ネタバレ】全五部構成・詳細なあらすじ

エイゼンシュテイン自身が古典悲劇の形式を意識し、本作を五幕構成で構想したとされている 。ここでは、その五つの幕に沿って物語の全容を詳細に追う。

第1幕「人間と蛆虫 (Men and Maggots)」

1905年、出航を待つポチョムキン=タヴリーチェスキー公

物語は、黒海に浮かぶ帝政ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の艦上から始まる 。艦内の空気は劣悪な待遇と上官による理不尽な扱いに不満を募らせる水兵たちの怒りで張り詰めている。その中には、革命思想を持つ水兵マトゥシェンコや、本作における民衆の英雄となるヴァクリンチュク(アレクサンドル・アントノーフ)の姿もあった 。

 

水兵たちの堪忍袋の緒が切れる直接のきっかけは、食事のスープに使うための牛肉であった。甲板に吊るされたその肉には、無数の蛆虫が湧いていたのである 。水兵たちが「こんな腐肉は食えない」と騒ぎ立てると、軍医が現れる。しかし彼は、眼鏡越しに肉を覗き込み、「これは蛆ではない。ハエの幼虫だ。無害だから塩水で洗えば問題ない」と言い放ち、水兵たちの怒りに油を注ぐ 。  

第2幕「甲板のドラマ (Drama on the Deck)」

昼食の時間、水兵たちは蛆虫入りのボルシチを前に、誰一人として手をつけようとしない 。事態に業を煮やした艦長ゴリコフは、全乗組員を甲板に非常召集する。そして、「スープに満足した者は前に出ろ。そうでない者は反逆者とみなし、帆桁に吊るして処刑する」と恫喝する 。  

恐怖に動揺する水兵たちの中から、十数名が処刑を免れるために前に出る。残った者たちに、衛兵による銃殺隊が銃口を向ける。まさに銃弾が放たれようとしたその瞬間、水兵ヴァクリンチュクが魂の叫びを上げる。「兄弟たち、誰を射つつもりか!」 。  

この言葉は、銃を構えた衛兵たちの心を撃ち抜いた。彼らは銃を下ろし、命令を拒否する。これを機に、抑圧されていた水兵たちの怒りが一斉に爆発し、全面的な反乱へと発展する。艦長や軍医をはじめとする圧政的な士官たちは次々と海に投げ込まれる。しかし、その激しい乱闘のさなか、反乱の口火を切った英雄ヴァクリンチュクが、士官の凶弾に倒れてしまう 。  

第3幕「死者は叫ぶ (A Dead Man Cries Out)」

反乱に成功したポチョムキン号は、革命の赤旗を掲げ、オデッサ港に入港する。水兵たちは、亡くなったヴァクリンチュクの遺体を陸に運び、波止場に安置する 。その胸には、「ひとさじのスープのために殺された」と書かれた札が置かれた 。  

一個人の死は、たちまち公的なシンボルへと変わる。ヴァクリンチュクの死を悼むオデッサの市民たちが、次から次へと波止場に集まり、その列は途切れることなく続く。彼らの悲しみは、やがてツァーリ政府への怒りへと変わり、「専制政治打倒!」の叫びが港に響き渡る。市民たちは小舟を出し、食料や物資をポチョムキン号に届け、水兵たちと固い連帯を結ぶ 。

第4幕「オデッサの階段 (The Odessa Steps)」

翌日、オデッサの市民たちは、港を見下ろす巨大な階段(プリモルスキー階段、通称「オデッサの階段」)に集まり、ポチョムキン号に歓声と支援の声を送っていた 。その光景は、革命の喜びと希望に満ち溢れていた。

しかし、その祝祭的な雰囲気は突如として打ち破られる。階段の頂上から、顔のない機械のようなコサック兵の一隊が整然と現れ、非武装の市民に向けて無差別に一斉射撃を開始するのである 。

阿鼻叫喚の地獄絵図が展開される。エイゼンシュテインはモンタージュ技法を駆使し、恐怖の瞬間を断片的に、しかし強烈に描き出す。息子をかばおうとして撃たれる母親、両脚を失いながら手で階段を必死に下りる若者、サーベルで顔を斬りつけられ眼鏡が割れる老教師 。

怪我をした息子を抱き抱えてコサック兵に救いを求める母親のバックショット

そして、映画史上最も有名になった場面が訪れる。銃弾に倒れた母親の手から乳母車が離れ、中に赤ん坊を乗せたまま、制御不能となって虐殺が続く階段を猛スピードで転がり落ちていく 。

乳母車が階段を転がり落ちるシーン

この惨劇を艦上から目撃したポチョムキン号は、報復として市内の軍司令部に向けて怒りの砲撃を行う 。

第5幕「艦隊との遭遇 (Rendezvous with the Squadron)」

オデッサでの市民との連帯は、ポチョムキン号を完全な反逆者へと変えた。ツァーリ政府は反乱を鎮圧するため、黒海艦隊の主力艦隊を派遣する 。ポチョムキン号は、たった一隻で艦隊全体を迎え撃つという絶望的な状況に追い込まれる。  

夜の闇の中、敵艦隊が姿を現す。ポチョムキン号の艦内では、降伏か、死を覚悟の抗戦かをめぐり激しい議論が交わされるが、最終的に戦うことを決意する。水兵たちは戦闘準備を進め、マストには「われらに合流せよ」という信号旗を掲げる 。  

敵艦隊が射程距離内に入り、砲門がこちらを向く。死を覚悟した水兵たちが息をのむ、緊張の極限。しかし、轟音の代わりに彼らが聞いたのは、津波のように押し寄せる歓声であった。敵艦隊の甲板から、無数の水兵たちが叫んでいた。「同志!」 。  

艦隊は反乱に合流したのである。ポチョムキン号は、味方となった艦隊が作る花道を、勝利の赤旗をはためかせながら堂々と進んでいく。映画は、革命の未来を暗示する希望に満ちた光景で幕を閉じる。

第三部:エイゼンシュテインの革命的映画言語「モンタージュ理論」

『戦艦ポチョムキン』が映画史上の金字塔である最大の理由は、エイゼンシュテインが本作で確立した「モンタージュ理論」の実践にある。それは単なる編集技術ではなく、映像によって新たな意味と思想を創造するための、革命的な方法論であった。

3-1. モンタージュとは何か?:クレショフ効果から衝突の理論へ

モンタージュ理論の基礎には、ソ連の映画監督レフ・クレショフによる「クレショフ効果」と呼ばれる実験がある。これは、あるショットの意味は、そのショット単体ではなく、前後に繋がれる別のショットによって決定されるという原理を示すものである 。例えば、俳優の無表情な顔のショットの後に、スープ皿のショットを繋げば観客は「空腹」と感じ、美しい女性のショットを繋げば「欲望」と解釈する。

しかし、エイゼンシュテインの理論はこれをさらに一歩進める。彼にとってモンタージュとは、ショットを滑らかに「連結(linkage)」させるものではなく、二つの異なるショットを意図的に「衝突(collision)」させるものであった 。この衝突によって、元の二つのショットには存在しなかった、全く新しい第三の意味や観念が観客の意識の中に生まれる。これこそが、エイゼンシュテインが目指した弁証法的な映像言語の核心である 。  

3-2. 知的モンタージュ:映像で「概念」を創造する

エイゼンシュテインの理論の中でも特に独創的なのが、「知的モンタージュ」である。これは、具体的な映像の衝突によって、文字通り撮影することが不可能な「抽象的な概念」を表現する手法を指す 。

その最も有名な実践例が、本作の「オデッサの階段」の虐殺シーンの直後に挿入される、三体の石のライオン像のショットである。エイゼンシュテインは、クリミア半島のアルプカ宮殿にあった、①眠っているライオン、②目を覚ますライオン、③立ち上がって咆哮するライオン、という三つの別々の彫像のショットを素早く連続して繋いだ 。

①眠っているライオン
②眼を覚ますライオン
③立ち上がって咆哮するライオン

静止した彫刻という無関係なショットを衝突させることで、「虐殺への怒りによって、眠っていた民衆がついに蜂起した」という、純粋に比喩的・概念的なメッセージを観客の心に創造したのである。  

こうしたエイゼンシュテインの理論的思考は、実は日本文化から深い影響を受けていたことが知られている 。彼は特に、漢字の成り立ちにモンタージュとの類似性を見出していた。例えば、「日」という象形文字と「月」という象形文字を組み合わせることで、新たな概念である「明」が生まれるように、二つの映像ショットを組み合わせることで新たな映画的概念を生み出すことができると考えたのである 。この事実は、彼の理論が単なる映画技術論に留まらず、言語や記号がどのように意味を構築するかという、より広範な記号論的探求であったことを示している。  

第四部:フィクションとしての『戦艦ポチョムキン』:史実との比較

『戦艦ポチョムキン』は、歴史上の出来事に着想を得ているが、その描写は史実と大きく異なる。特に、映画の象徴ともいえる場面は、プロパガンダとしての効果を最大化するために大胆に創作されたフィクションであった。

4-1. 史上最も有名な「虚構」:オデッサの階段の真実

本作で最も有名かつ衝撃的な「オデッサの階段」での市民虐殺シーンは、歴史上、実際には起こっていない。これはエイゼンシュテインによる完全な創作である 。

階段そのものは、ウクライナのオデッサに実在する「プリモルスキーの階段」であり、街のランドマークであった 。1905年当時、オデッサの港でストライキや騒乱が発生し、軍による弾圧で死傷者が出たことは事実である 。しかし、映画で描かれたような、階段上でコサック兵が市民を整然と、無差別に虐殺したという事件は、いかなる歴史的記録にも存在しない。エイゼンシュテインは、ツァーリ政府の非人間性を象徴的に描き、観客の怒りを最大限に引き出すために、この劇的な場面を捏造したのである。

4-2. 実際の反乱はどうだったのか

史実の「戦艦ポチョムキンの反乱」は、映画の描写とは大きく異なる結末を迎えた。反乱のきっかけが腐った肉であったことは事実である 。しかし、映画で描かれるような輝かしい勝利には至らなかった。

反乱は黒海艦隊の他の艦船にはほとんど波及せず、ポチョムキン号は孤立した 。オデッサでの支援も限定的で、石炭や食料の補給もままならなかった。最終的に、反乱水兵たちは黒海をさまよった末、ルーマニアのコンスタンツァ港へ向かい、そこで艦を引き渡して亡命した 。反乱は事実上、失敗に終わったのである。指導者の多くは後に逮捕・処刑されている 。  

以下の比較表は、映画がいかに歴史を改変し、革命の神話を構築したかを明確に示している。

【図解2:映画と史実の比較表】

出来事映画『戦艦ポチョムキン』の描写史実
オデッサの階段コサック兵による市民の大規模な無差別虐殺が発生する 。このような虐殺事件は起きていない。完全な創作である 。
艦隊の反応全艦隊が反乱に同調し、「同志!」と歓声を上げてポチョムキン号を迎える 。  ほとんどの艦は同調せず、ポチョムキン号は孤立した 。
反乱の結末革命の勝利を象徴する、希望に満ちた終わり方。反乱は失敗。水兵たちはルーマニアに亡命し、艦は返還された 。
司令部への砲撃ポチョムキン号の砲撃が軍司令部を粉砕する 。砲撃は行われたが、命中せず効果はなかった 。

この映画の真に恐るべき力は、歴史を凌駕する能力にある。エイゼンシュテインが創造した「オデッサの階段」というフィクションは、あまりにも象徴的で強力であったため、やがて史実そのものとして世界中の人々の集合的記憶に刻み込まれてしまった 。これは、巧みに構築された物語が、時に現実よりも「リアル」なものとして受容されうるという、メディアの力を示す根源的な教訓である。それは、情報が瞬時に拡散し、真実と虚構の境界が曖昧になりがちな現代において、ますます重要な意味を持つ。

第五部:後世への影響と作品評価

『戦艦ポチョムキン』は、その芸術的革新性とプロパガンダとしての影響力によって、映画史に不滅の足跡を残した。

5-1. 映画史上の金字塔:揺るぎない評価

公開当初から本作は世界中で大きな反響を呼び、数々の映画ランキングで常に上位に位置づけられてきた。特に、1958年のブリュッセル万国博覧会で世界各国の批評家によって選ばれた「世界映画史上の傑作12選」では、チャップリンの『黄金狂時代』などを抑えて第1位の栄誉に輝いたことは、その評価を不動のものとした 。

その影響力は、政治的な敵対者にさえ及んだ。ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、本作の持つ大衆扇動の力に深く感銘を受け、「これこそが真のプロパガンダ映画だ。我々もこれに匹敵するナチスの映画を作るべきだ」と語ったと伝えられている 。これは、本作が芸術作品としてだけでなく、思想を伝達する道具としていかに効果的であったかを物語る逸話である。  

5-2. オマージュとパロディ:「オデッサの階段」のDNA

とりわけ「オデッサの階段」のシークエンスは、映画史上最も引用され、オマージュが捧げられた場面の一つとなった 。

「戦艦ポチョムキン」:オデッサの階段

その最も有名な例が、ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』(1987年)である。この作品では、シカゴのユニオン駅の階段で、乳母車が転がり落ちるシーンがほぼ忠実に再現されており、『ポチョムキン』への明確なオマージュとなっている 。

「アンタッチャブル」(1987):シカゴのユニオンステーション

他にも、テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』やウディ・アレン監督の『バナナ』など、数多くの作品でこの場面はパロディ化され、そのDNAは後世の映画に深く刻み込まれている 。

5-3. 日本における『ポチョムキン』:上映禁止から名作へ

日本における本作の受容史は、20世紀日本の政治的・文化的変遷を映し出す鏡のような、特異な道のりを辿った。

フィルムは1926年に横浜港に到着したが、その共産主義的な内容から、内務省の検閲によって即座に輸入が禁止され、戦前の上映は一切許されなかった 。戦後、状況は変わるかと思われたが、今度は冷戦下のアメリカ占領軍によって、ソビエト映画として上映が事実上差し止められることになる 。

しかし、その芸術的価値を信じる映画評論家や愛好家たちの間で、正規のルートを経ずに本作を鑑賞しようという動きが生まれる。1950年代後半、全国各地で「自主上映会」が組織され、本作を観ること自体が一種の政治的・文化的抵抗運動としての意味合いを帯びるようになった 。この草の根運動は大きな広がりを見せ、多くの観客を動員した。

そしてついに1967年10月4日、アートシアター・ギルド(ATG)の配給により、製作から40年以上を経て、日本の劇場で初めて一般公開されたのである 。帝国主義下の検閲、冷戦下の抑圧、そして60年代の学生運動や左翼思想の高まりという時代背景の中で花開いた自主上映運動。本作の日本における受容の歴史は、まさに日本の近現代史における主要なイデオロギー闘争の縮図であった。それは単なる一本の映画ではなく、文化的な闘争の象徴だったのである。

結論:100年後も色褪せない映像の力

『戦艦ポチョムキン』は、深遠なる矛盾を内包した作品である。国家が命じたプロパガンダでありながら、普遍的な芸術の傑作となった。歴史劇でありながら、その最も有名な場面は完全なフィクションである。そして、音を持たないサイレント映画でありながら、いかなるトーキー映画よりも雄弁に観客の心に訴えかける。

本作が残した遺産は二つある。一つは、「モンタージュ」という新たな映画言語を誕生させ、映像表現の可能性を飛躍的に拡大させたこと。もう一つは、その言語が持つ、人々の信念を形成し、時には現実さえも構築しうる、計り知れない力を証明したことである。

今日、『戦艦ポチョムキン』を観ることは、単に古い映画を鑑賞する以上の体験である。それは、現代にまで続く映像表現の原点を目撃し、イメージが持つ力についての時代を超えた、そして緊急性を持った教訓を受け取ることである。映画を理解したいと願う者だけでなく、映画が作り出すこの世界そのものを理解したいと願うすべての人々にとって、本作は必見の作品であり続けるだろう。

Battleship Potemkin” (1925): A Revolutionary Masterpiece that Redefined Cinema


TL;DR:

This article offers an in-depth exploration of Sergei Eisenstein’s Battleship Potemkin, analyzing its plot, political intent, montage theory, and its divergence from historical truth. It reveals how a Soviet propaganda film became an eternal icon of cinematic innovation.


Background and Context:

Battleship Potemkin was commissioned to commemorate the 20th anniversary of the 1905 Russian Revolution. Directed by Sergei Eisenstein, the film depicts a naval mutiny and was designed to promote communist ideals. Despite being state propaganda, it gained global acclaim as a universal artistic achievement.


Plot Summary:

Structured in five acts, the film narrates the crew’s rebellion aboard the Potemkin due to inhumane conditions and maggot-infested food. The conflict escalates with the execution of a sailor and culminates in the massacre of civilians on Odessa’s iconic staircase. In the climax, other ships in the fleet join the rebellion, symbolizing revolutionary triumph.


Key Themes and Concepts:

The film is best known for pioneering montage theory, where meaning is generated not just by images themselves but by their juxtaposition. Influenced by the Kuleshov effect, Eisenstein used intellectual montage to convey abstract concepts—such as revolution—visually. His cinematic language drew inspiration even from Chinese characters and Japanese aesthetics.


Differences from the Historical Record:

Despite its realistic tone, major scenes—especially the Odessa Steps massacre—were entirely fictional. The real mutiny failed, and the ship surrendered in Romania. Eisenstein manipulated events for maximum ideological impact, blending fiction and history into a new mythos of revolution.


Conclusion:

Battleship Potemkin proves that cinema can be both politically motivated and artistically groundbreaking. Its visual grammar redefined filmmaking and left an indelible mark on generations of directors, from De Palma to Gilliam. Even 100 years later, its imagery continues to influence how stories are told on screen.

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