映画の歴史において、一瞬にして世界を魅了し、永遠に記憶されるアイコンが存在します。ウルスラ・アンドレスは、まさにそのような人物です。初代ジェームズ・ボンドガールとしての衝撃的な登場は、彼女を国際的なスターダムへと押し上げましたが、その魅力と影響力は、単なる一役柄に留まるものではありませんでした。本記事では、スイス出身のこの女優が、いかにして映画界、ファッション界、そして時代の文化に深く、永続的な足跡を残したのかを探ります。
ウルスラ・アンドレスとは?初代ボンドガールの伝説
ウルスラ・アンドレスは、1962年の映画『007 ドクター・ノオ』で初代ボンドガール、ハニー・ライダーとしてスクリーンに登場し、映画史における最も象徴的な瞬間の一つを創り出しました。白いビキニを纏い、カリブ海から現れるシーンは、瞬く間に世界中の観客を虜にし、彼女を国際的なセックスシンボルへと押し上げました。しかし、彼女のキャリアと影響力は、この一役だけに限定されるものではありません。アンドレスは、その美貌と大胆さで60年代の解放的な気運を体現し、後続の女優たちやファッション界にも大きな影響を与えました。
007ドクター・ノオで世界を魅了した白いビキニの衝撃
カリブ海から白いビキニ姿で現れ、腰には大きなダイビングナイフを携えるシーンは、映画史およびファッション史における伝説的な瞬間として語り継がれています。このシーンは、チャンネル4が実施した英国の調査で「最もセクシーな瞬間100選」の第1位に選ばれるなど、その衝撃度と影響力の大きさを物語っています。この登場シーンによって、ツーピースビキニの売上は急増し、アンドレス自身も「このビキニが私を成功に導いた」と後に語っています。
ハニー・ライダーというキャラクターは、単なるボンドの添え物ではありませんでした。彼女は貝殻採集のダイバーであり、島の知識も豊富で、ナイフを携帯するなど、当時のスクリーンに登場する女性としては珍しく、自立心と強さを兼ね備えていました。
スイス出身の国際的スターへの道のり

ウルスラ・アンドレスは1936年3月19日、スイスのベルン州オスタームンディゲンで、6人兄弟の3番目として生まれました。母親はスイス人、父親のロルフ・アンドレスはドイツ人の外交官でした。しかし、父親は政治的な理由でスイスから追放され、その後は庭師であった祖父が彼女の後見人となりました。
アンドレスは16歳までベルンの学校に通い、そこで英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語を含む数カ国語を習得しました。その後、パリで1年間美術を学び、ローマへ移住。ローマでは、子供のベビーシッターなど、様々な仕事をして生計を立てていました。
若き日のアンドレスは、その美貌からローマでアートモデルとして活動し始め、イタリア映画の端役を得るようになります。1955年後半、アンドレスはハリウッドのエグゼクティブに見出され、アメリカでの成功を目指すよう説得されます。同年、彼女はパラマウント・ピクチャーズと週給287ドルで7年契約を結びますが、英語を学ぶことに消極的だったため、すぐには役を得られませんでした。
ハリウッドでのブレイクスルー:ボンドガールとしての成功

ウルスラ・アンドレスの名を世界に轟かせたのは、紛れもなく1962年公開のジェームズ・ボンドシリーズ第1作『007 ドクター・ノオ』におけるハニー・ライダー役でした。この役は彼女にとってブレイクスルーとなり、映画史に残るアイコニックなボンドガールとして、その地位を不動のものとしました。
映画史に残る伝説的なビーチシーン
興味深いことに、アンドレスの強いスイスドイツ語訛りのため、『007 ドクター・ノオ』での彼女のセリフは全てニッキ・ヴァン・デア・ジルによって吹き替えられていました。また、劇中で彼女が口ずさむカリプソ「マンゴーの木の下で」もダイアナ・クープランドによる吹き替えでした。プロデューサーにとって実用的な判断であったこの吹き替えは、逆説的に、彼女の視覚的な存在感がいかに強烈であったかを物語っています。
ゴールデングローブ賞新人女優賞の受賞
『007 ドクター・ノオ』での成功は、ウルスラ・アンドレスに「将来の役を自由に選ぶ自由と経済的自立」をもたらしました。自身の声が使われなかったにもかかわらず、彼女はその役で世界的なスターダムにのし上がり、1964年にはゴールデングローブ賞の新人女優賞を受賞しました。
ウルスラ・アンドレスの多彩な映画キャリア
『007 ドクター・ノオ』での鮮烈なデビュー後、ウルスラ・アンドレスはボンドガールのイメージに留まらず、多様なジャンルの作品に挑戦し、国際的なキャリアを築き上げました。彼女の身体的な魅力は依然として多くの役柄で際立っていましたが、その活動はアメリカ、イギリス、イタリア、フランスと多岐にわたりました。
国際的な映画スターへの成長

引用元:https://blog-imgs-26.fc2.com/m/a/m/mamdarin/uandoresu-07.jpg
『007 ドクター・ノオ』直後には、エルヴィス・プレスリー共演のミュージカル映画『アカプルコの海』(1963)や、フランク・シナトラ、ディーン・マーティンらと共演した『テキサスの四人』(1963)など、ハリウッドの大作に出演。その後も、ハマー・フィルム製作で不死の女王を演じ興行的にも成功した『炎の女』(1965)、ウディ・アレン脚本・出演のヒットコメディ『何かいいことないか子猫チャン』(1965)など、話題作への出演が続きました。
ジャンルを超えた多様な作品と役柄
1960年代後半から1970年代にかけては、多くの作品でヌードやセミヌードを披露し、「ウルスラ・アンドレス」をもじった「ウルスラ・アン(下着を)ドレス(脱ぐ)」というニックネームで呼ばれることもありました。この時期の代表作には、チャールズ・ブロンソン、三船敏郎、アラン・ドロンら国際的キャストと共演した西部劇『レッド・サン』(1971)、イタリア映画『セクシー・ナース』(1975)などがあります。
その後も、神話叙事詩『タイタンの戦い』(1981)で女神アフロディーテを演じ、映画『レッド・ベルズ』(1982)に出演。テレビドラマにも進出し、エミー賞受賞のミニシリーズ『ピーター大帝』(1986)や人気ソープオペラ『ファルコン・クレスト』(1988)にも出演しました。彼女の最後の映画出演は2005年の『St. Francis Birds Tour』とされています。
ウルスラ・アンドレスの主要フィルモグラフィー
公開年 | 邦題 (原題) | 役名 | 主な共演者/監督 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1962 | 007 ドクター・ノオ (Dr. No) | ハニー・ライダー | ショーン・コネリー | ブレイクスルー作品、ゴールデングローブ賞新人女優賞受賞 |
1963 | アカプルコの海 (Fun in Acapulco) | マルガリータ・ドーフィン | エルヴィス・プレスリー | ミュージカル映画 |
1965 | 炎の女 (She) | アイーシャ | ピーター・カッシング、クリストファー・リー | ハマー・フィルム製作、興行的成功 |
1965 | 華麗なる殺人 (The 10th Victim) | キャロライン・メレディス | マルチェロ・マストロヤンニ | SF映画、カルト的人気 |
1966 | ブルー・マックス (The Blue Max) | カエティ・フォン・クルーガーマン伯爵夫人 | ジョージ・ペパード | 第一次世界大戦映画、興行的成功 |
1967 | 007 カジノロワイヤル (Casino Royale) | ヴェスパー・リンド (007) | ピーター・セラーズ、デヴィッド・ニーヴン | ボンド映画パロディ |
1971 | レッド・サン (Red Sun) | クリスチーナ | チャールズ・ブロンソン、三船敏郎、アラン・ドロン | 国際的キャストによる西部劇 |
1981 | タイタンの戦い (Clash of the Titans) | アフロディーテ | ハリー・ハムリン、ローレンス・オリヴィエ | 神話叙事詩 |
二度のボンドガール:『007カジノロワイヤル』のヴェスパー・リンド

引用元:https://www.nile-store.jp/items/81193497
特筆すべきは、1967年のボンド映画パロディ『007 カジノロワイヤル』でヴェスパー・リンド役を演じたことです。これにより、彼女は異なるボンドガールを2度演じた唯一の女優となりました。
ファッションアイコンとしてのウルスラ・アンドレス
ウルスラ・アンドレスがファッション界に与えた影響は計り知れず、特に『007 ドクター・ノオ』で着用した白いビキニは、その象徴と言えます。
「史上最も有名なビキニ」の文化的影響
このビキニは「史上最も有名なビキニ」と称され、女性ファッション史、そして性の革命期における重要な瞬間として記憶されています。このビキニの登場は水着のトレンドに火をつけ、ツーピースを解放の象徴として確固たるものにしました。レプリカは今日でも販売されています。興味深いことに、このアイコニックなビキニは、アンドレス自身と衣装デザイナーのテッサ・プレンダーガストによって共同でデザインされたものでした。
独自のスタイルで確立した時代のファッションリーダー

アンドレスはヒョウ柄のコートやブーツ、クラシックなトレンチコート、シルキーなボンバージャケット、毛皮の袖口が付いたスパンコールのジャケットなどを愛用し、独自のスタイルを確立していました。彼女にとってコートは単なる防寒具ではなく、自己表現の手段であり、「スタイルのアイコンの多くは、服装に確固たる自信を持っている」という言葉を体現していました。
型破りな私生活:愛と自由を貫いた女性
ウルスラ・アンドレスの私生活は、彼女のスクリーン上のイメージ同様、大胆で型破りなものでした。彼女は従来の社会規範に縛られることなく、愛と個人の自由を優先する生き方を貫きました。
有名人との波乱に富んだ恋愛遍歴

引用元:https://www.vogue.co.jp/article/birthday-of-ursula-andres
17歳で既婚の俳優ダニエル・ジェランに処女を捧げたと公言しており、1955年にアメリカへ渡った後は、デニス・ホッパーやジェームズ・ディーンといった若手スターと交際しました。同年、19歳だったアンドレスは、当時既婚で二人の子供がいた俳優兼監督のジョン・デレクと不倫関係になり、デレクは彼女のために家族を捨てました。二人は1957年2月2日にラスベガスで駆け落ち同然に結婚。しかし、アンドレスのロン・イーとの不倫が原因で1964年に別居、1966年に離婚しました。
離婚後、彼女は『カトマンズの男』で共演したジャン=ポール・ベルモンドと1965年から1972年まで同棲。アンドレスはベルモンドを「人生最愛の人」と語り、「ジャン=ポールの愛のために夫を裏切った」と述べています。その後も、『Stateline Motel』で共演したファビオ・テスティと1973年から1977年まで同棲しました。
母親としてのウルスラ・アンドレス
1979年、『タイタンの戦い』の撮影現場で出会った俳優ハリー・ハムリンと同棲を開始。1980年5月19日には、一人息子であるディミトリ・アレクサンダー・ハムリンを出産しました。ディミトリの出産時には、女優のリンダ・エヴァンスが彼女を病院まで運転したと伝えられています。ハムリンとは婚約したものの結婚はせず、1983年に関係は終わりを迎えました。
賞賛と評価:アンドレスの受賞歴と文化的影響
ウルスラ・アンドレスの影響力は、大衆的な人気だけでなく、映画業界団体からも公式に認められてきました。彼女のキャリアを通じて受賞した主な賞や栄誉は、その功績を物語っています。
ゴールデングローブ賞とその他の栄誉
最も特筆すべきは、ゴールデングローブ賞です。1964年には『007 ドクター・ノオ』での演技により、新人女優賞を受賞。1966年にはワールド・フィルム・フェイバリット(女優部門)を受賞しました。
その他にも、ローレル賞、フォトプレイ賞へのノミネート、アルメリア国際映画祭でのアルメリア・ティエラ・デ・シネ賞(2003年)、シネユーフォリア賞の名誉キャリア賞(2019年)など、数々の栄誉を受けています。
ウルスラ・アンドレス:主な受賞歴
年 | 賞/栄誉 | カテゴリー/表彰内容 | 授与団体/情報源 |
---|---|---|---|
1964 | ゴールデングローブ賞 | 新人女優賞 (Dr.No) | ハリウッド外国人映画記者協会 |
1966 | ゴールデングローブ賞 | ワールド・フィルム・フェイバリット(女優部門) | ハリウッド外国人映画記者協会 |
1964 | ローレル賞 (ノミネート) | 有望新人女優部門 (5位) | |
1967 | フォトプレイ賞 (ノミネート) | 人気女優部門 | |
2003 | アルメリア国際映画祭 | アルメリア・ティエラ・デ・シネ賞 | |
2019 | シネユーフォリア賞 | 名誉キャリア賞 |
映画史における不朽の地位
これらの公式な賞に加え、イギリスのエンパイア誌が1995年に彼女を「映画史における最もセクシーなスター100人」の一人に選出したり、チャンネル4が2003年に『007 ドクター・ノオ』の登場シーンを「最もセクシーな瞬間100選」の第1位に選んだりするなど、その文化的影響力は広く認識されています。
知られざるウルスラ・アンドレス:多言語を操る国際派女優
ウルスラ・アンドレスの公的なイメージの背後には、多言語を操る才能、ブリジット・バルドーとの逸話、そして彼女自身の言葉を通して垣間見える、より個人的な側面が存在します。
5カ国語に堪能なインテリジェンス

引用元:https://eiga-pop.com/person/63189/images
彼女はスイスドイツ語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語に堪能でした。この語学力は、彼女が国際的に活躍することを可能にしました。
興味深い逸話としては、17歳で家出または学校を抜け出した際、両親がインターポールに捜索を依頼し、その際にブリジット・バルドーにかくまってもらったという話があります。バルドー自身も、無名時代のアンドレスとローマのホテルで同室だったことに言及しています。
彼女自身の言葉に見る本当の姿

彼女自身の言葉は、その人となりや考え方をより深く理解する手がかりとなります。
キャリアと名声について:「このビキニが私を成功させたのよ」。「『007 ドクター・ノオ』は1年間見なかったけど、見た時は気に入ったわ。楽しい映画だったもの」。
自立心と旅について:「私はいつもジプシーだったの。好奇心と旅を夢見ていたわ」。
美とイメージについて:(プレイボーイ誌の撮影について)「私が美しいからよ」。「セクシーという言葉は嫌い」。「誘惑するために体を使うことはないわ。ただそこに立っているだけよ」。「鏡で自分を見るのは嫌い」。
人生と優先事項について:「花と猫の世話をして、食事を楽しむ。それが生きることよ」。「収集は私の喜び」。「ベッドは私の世界」。
後年の活動と現在のウルスラ・アンドレス
1980年に息子ディミトリが誕生した後、ウルスラ・アンドレスは映画の仕事をセーブし、イタリアで息子を育てながら、主にヨーロッパの小規模な作品に出演するようになりました。
母性を選んだハリウッドスター
メル・ブルックス監督の大作を断り、『レッド・ベルズ』(1982)を選択したこともありました。その後も、テレビドラマ『ファルコン・クレスト』(1988)やミニシリーズ『ピーター大帝』(1986)などに時折出演し、知名度を保ちました。1997年(または1998年)にはアートハウス映画『クレマスター5』にも出演しています。最後の映画出演は2005年の『St. Francis Birds Tour』とされています。
チャリティ活動と映画祭への参加
俳優業から引退した後は、チャリティイベントに参加したり、海外のトークショーに出演したりする姿が見られました。スイスの家族、バージニアやスペインの友人、そしてローマやロサンゼルスの自身の物件を行き来する生活を送っていると伝えられています。カンヌ国際映画祭などのイベントにも姿を見せていました。
ウルスラ・アンドレスの遺産:時代を超える魅力
ウルスラ・アンドレスの遺産は、今もなお色褪せることがありません。彼女は後のボンドガールの道を切り開き、その原型を確立しました。『007 ドクター・ノオ』のビキニシーンは、映画史における基準点であり続けています。このビキニが4万ドル以上(実際には41,125ポンド)でオークションにかけられたことは、その遺産の証です。
フェミニズムの視点から再評価される先駆者
彼女のイメージは、フェミニストの学者たちによって女性映画史における画期的な出来事として再評価され、彼女の主体性と影響力が強調されています。ジェンダー規範に挑戦した先駆的な役柄は称賛されています。
現代の映画界とファッション界への継続的影響
「ウルスラ・アンドレスはただビキニを着たのではない。彼女は文化的な瞬間を身にまとったのだ」という言葉は、彼女の存在の大きさを的確に表しています。彼女は困難を乗り越える力、自由、そして内なる強さの永続的な象徴と見なされています。
ウルスラ・アンドレスは、単に初代ボンドガールとして記憶されるだけでなく、そのイメージと自立心で大衆文化に消えることのない足跡を残した先駆者として、映画史においてユニークで永続的な地位を確立しています。彼女の物語は、名声の本質、女性の図像学の複雑さ、そして真に忘れがたいスクリーンの存在感の永続的な力について、時代を超えた洞察を提供してくれます。彼女の伝説は、これからも語り継がれていくことでしょう。
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