芥川龍之介「あばばばば」徹底解説:あらすじから時代背景、母性の深層まで

奇妙な題名に秘められた世界

芥川龍之介の後期を代表する短編「あばばばば」。多くの読者がまずその奇妙な題名に首を傾げるであろう 。「あばばばば」とは一体何を意味するのか。ある者は、作者の精神が錯乱し、意味をなさぬ言葉を発しているのではないかとさえ想像するかもしれない。しかし、この一見すると不可解な題名は、物語の結末において鮮やかな意味を帯び、読者に「あ、そういうことか」という知的な驚きをもたらす 。それは単なる赤子をあやす言葉に留まらず、一人の女性の劇的な変容、生命そのものが持つ根源的な力、そしてそれを見つめる知識人の複雑な感慨を象徴しているのである。  

目次

第一章:作品の基本情報と位置づけ

「あばばばば」は、芥川龍之介の晩年の作風、特に私小説的な傾向への移行を理解する上で、極めて重要な位置を占める作品である。その基本的な書誌情報を把握することは、深い読解への第一歩となる。

本作は、芥川の分身とされる「堀川保吉」を主人公とする一連の「保吉もの」と呼ばれる作品群に属している 。保吉は海軍機関学校の英語教師であり、これは芥川自身の経歴と重なる。この設定により、物語は単なる創作に留まらず、作者自身の体験や心境を色濃く反映した私小説としての性格を帯びているのである 。

初出は、総合雑誌『中央公論』の1923年(大正12年)12月号である 。『中央公論』が当時の日本を代表する知的論壇であったことを考えれば、本作が当代一流の文学作品として世に問われたことがわかる。その後、1925年(大正14年)に新潮社から刊行された短編集『黄雀風』に初めて収録された 。大正という時代が大きな転換点を迎えたまさにその時に発表された本作の位置づけを、以下の表に簡潔にまとめる。  

表1:「あばばばば」作品概要

項目内容
著者芥川龍之介
題名あばばばば
初出雑誌『中央公論』
発表年月1923年(大正12年)12月
ジャンル保吉もの、私小説
初収録単行本『黄雀風』

この表が示すように、本作は芥川のキャリア、そして日本近代史の特定の時点に深く根差しており、その文脈を理解することが作品分析の鍵となる。

第二章:詳細なあらすじ(ネタバレあり)

物語は、主人公・保吉の視点を通して、一人の女性が「娘じみた細君」から「母」へと変貌を遂げる過程を、冷徹かつ微細な観察眼で描く。その巧みな物語展開は、日本の伝統的な構成法である「起承転結」に沿って整理することができる。

起:保吉と煙草屋の出会い

物語の主人公は、海軍機関学校で英語を教える知識人、堀川保吉である 。物語は、彼が学校の近くにある一軒の煙草屋と奇妙な関係を結ぶところから始まる。初めてマッチを買いに立ち寄った際、店の主人である眇(すがめ)の男は、無愛想ながらも妙に親切であった。彼は景品用の小さなマッチを無償で渡そうとするが、保吉は知識人らしい屈折した自意識からそれを素直に受け取れず、意地を張って一銭を払い、煙草とともに大型のマッチを買う 。この滑稽で意固地なやりとりは、保吉という人物の性格と、この店の持つ独特の雰囲気を読者に印象づける導入部となっている。  

承:「含羞草」のような女の登場

ある初夏の朝、保吉が店を訪れると、店番が主人の若い妻に代わっていた。彼女は十九歳くらいで、保吉の存在に気づくと顔を真っ赤にし、おどおどと応対する、極度に内気で恥ずかしがり屋な女性であった 。保吉はこのうぶな女性の姿を「含羞草(おじぎそう)」に喩える 。彼は、彼女に「一定の刺戟を与へさへすれば、必ず彼の思ふ通りの反応を呈する」だろうと、まるで科学者が実験対象を観察するかのような冷徹な視線を向け、その反応を楽しむようになる 。  

その後の秋の日、保吉が店で電話を借りた際、彼女は客が注文した「玄米珈琲」を「ゼンマイ珈琲」と聞き間違え、その間違いを指摘されるとひどく恥じらうという出来事があった 。このエピソードは、彼女の純粋さと世間知らずな「娘じみた」性質を象徴している。保吉は、この壊れやすく、傷つきやすい美しさに、ある種の審美的な価値を見出し、密かな興味の対象としていたのである。  

転:女の失踪と再来

しかし、翌年の正月頃から、その若い妻は店からぱったりと姿を消してしまう。いつ訪れても店にいるのは例の眇の主人ばかりであり、保吉は彼の日常から興味深い観察対象が失われたことに「ちよいともの足らなさを感じ」る 。  

そして二月の末のある夜、保吉が店の前を通りかかると、そこに赤子を抱いた一人の女性がいるのを発見する。店の電燈の光に照らされたその顔は、まさしくあの店の若い妻であった 。彼女が店から姿を消していた理由は、出産のためであったことが、この瞬間、明らかになる。  

結:「あばばばば」—母性の顕現と保吉の感慨

保吉は、自分と目が合えば、彼女が以前のように恥じらい、うろたえるだろうと瞬時に予測し、期待する 。しかし、彼の予想は完全に裏切られる。彼女は保吉の視線を全く意に介さず、澄ました顔で、人前も憚ることなく腕の中の赤子に向かって「あばばばばばば、ばあ!」と無心に繰り返すのである 。  

その姿を目の当たりにした保吉は、彼女がもはやかつての「あの女」、つまり彼の観察対象であった「娘じみた細君」ではないことを悟る。彼女は「度胸の好いい母の一人」であり、さらには「一たび子の為になつたが最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい『母』の一人」へと変貌を遂げていた 。  

保吉はこの変化を、生命の営みとして「祝福を与へても好い」と理屈では認めつつも、「娘じみた細君の代りに図々しい母を見出したのは、……」と、取り返しのつかないものを失ったかのような喪失感と戸惑いを覚える。彼はその複雑な感慨を抱いたまま、茫然と白くかすんだ春の月を見上げるのであった 。  

第三章:作品の背景—1923年、大正末期の空気

「あばばばば」は、単なる日常を切り取った私的なスケッチではない。この作品が世に出た1923年(大正12年)という年は、日本近代史において特異な意味を持つ。特に、発表のわずか3ヶ月前に首都圏を襲った関東大震災は、物理的な破壊のみならず、人々の精神にも深い傷跡を残した。作品に描かれる「不可逆的な変化」と、それに対する「喪失感」は、この時代の空気を色濃く反映しているのである。

関東大震災の影

本作が『中央公論』に掲載されたのは1923年12月。そのわずか3ヶ月前の9月1日、関東大震災が発生した 。芥川自身もこの未曾有の災害に大きな衝撃を受け、「大震に際せる感想」などの文章を発表し、愛する東京が「灰の山」と化したことへの嘆きを記している 。  

この歴史的文脈を踏まえるとき、「あばばばば」の物語は新たな意味を帯びてくる。物語の中心にあるのは、煙草屋の妻の「不可逆的な変容」である。彼女は、繊細で傷つきやすい「娘じみた細君」から、生命力に溢れるがゆえに「図々しい」「恐ろしい」母へと変わる 。主人公の保吉にとって、これは愛でていた審美的な対象の喪失であり、個人的な小悲劇である 。この個人的なレベルで描かれる喪失感と変容は、震災によって古き良き東京を一夜にして失い、混沌とした新しい現実と向き合わざるを得なくなった当時の人々の集団的なトラウマの、いわば寓話的な反映と読み解くことができる。

はかなく美しい「含羞草」のような女は、震災前の失われた牧歌的な過去を象徴し、力強い母は、瓦礫の中から立ち上がる、たくましくもどこか恐ろしさを秘めた新しい生命力を象徴している。かくして本作は、時代の「ぼんやりした不安」を、一個人の視点を通して見事に結晶化させているのである 。  

芥川龍之介の精神的風景

1923年頃の芥川は、作家として大きな転換期にあった。1921年の中国旅行以降、心身の不調が顕著になり、神経衰弱や腸カタルに悩まされるようになる 。彼の文学もまた、初期の歴史小説や説話物から、自身の体験を色濃く反映した私小説的な「保吉もの」へと移行していく 。かつて自然主義文学の告白的な手法を痛烈に批判した芥川が、この時期に自己を投影した作品群を書き始めたことは、彼の創作上の、そして精神的な大きな変化を示唆している 。  

「あばばばば」は、この新しい作風を代表する一編である。創作に行き詰まりを感じ 、プロレタリア文学の台頭という文壇の変化に晒され 、そして自身の健康不安という内なる脅威に直面する中で、芥川は「保吉」という分身を通して、過去の自分(海軍機関学校教師時代)の体験を再構成しようとした。物語における保吉の、対象から一歩引いた冷徹な観察眼は、混沌としていく内外の世界を、なんとか知性によって整理し、把握しようとする作者自身の精神的な営為の表れであった。それは、迫りくる狂気の予感 に対する、「自己整理」のための文学的実践であったとも言えるのである 。  

第四章:深層分析—「あばばばば」に隠された多層的テーマ

この簡潔な物語は、その奥に幾重にも重なるテーマを秘めている。一人の女性の変容を軸に、成長と喪失、母性の両義性、知識人のエゴイズムといった普遍的な問いが、芥川ならではの筆致で描き出されている。

「娘」から「母」への変容—成長と喪失の二重性

物語が描く女性の変化は、単純な「成長物語」として一元的に捉えることはできない。なぜなら、それは徹頭徹尾、知識人である保吉の視点を通して濾過されているからである。彼が魅了されたのは、彼女の「含羞草」のような、外界の刺激に敏感に反応するはかない繊細さであった 。彼はその純粋な反応を観察し、知的に楽しんでいた 。

しかし、母となった彼女は、その繊細さを完全にかなぐり捨て、他者の視線をものともしない「図々しい」存在へと変貌する 。保吉にとって、これは美しい蝶がさなぎを経て、もはや飛ぶことのない別の生物になったかのような、カテゴリーの根本的な変化であり、愛でていた価値の「喪失」に他ならない 。彼は、この変化が生命の営みとして祝福されるべきものであると理屈では理解しつつも、感情の上では、失われた「娘じみた細君」の面影を悼んでいるのである。  

母性のアンビバレンス—祝福されるべき「恐ろしい」力

本作における母性の描写は、極めて両義的(アンビバレント)である。保吉は、母となった女を「祝福」すべき存在と認めながらも、同時に「一たび子の為になつたが最後、古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい『母』の一人である」と断じる 。この一見矛盾した評価の背後には、芥川自身の個人的なトラウマが深く影を落としている。  

芥川は生後間もなく実母ふくが精神に異常をきたしたため、母の愛を知らずに育った。彼にとって「母」とは、穏やかで慈愛に満ちた存在ではなく、不可解で、時に恐ろしい力の表象であった 。本作で描かれる母性は、まさにこの芥川の母性観を体現している。子の為ならば社会的な規範(恥じらい)を平然と乗り越え、他者を意に介さなくなるその姿は、一種の強力なエゴイズムである 。

物語は、知識人男性の視点から安全に鑑賞できる「女・娘」という審美的な存在と、そのカテゴリーを破壊し、理性の理解を超えた生命の法則に従う「母」という存在とを、鋭く対比させる。保吉が最後に感じた茫然自失は、この根源的で、祝福されるべきだが同時に恐ろしい力と対峙した、作者自身の戦慄の表明なのである。  

知識人の眼差しとエゴイズム

この物語は、女の変化を描くと同時に、それを見つめる主人公・保吉のあり方も問うている。保吉の態度は、決して純粋な共感者や客観的な観察者のものではない。彼は女を「含羞草」と名付け、刺激に対する反応を予測し、その現象を楽しむ 。これは、人間を研究対象として客体化する科学者の視線であり、そこには共感よりも知的な支配欲という、知識人特有のエゴイズムが透けて見える 。

しかし、物語の結末で、女は彼の予測と知的な枠組みを完全に逸脱する。彼女はもはや彼の観察対象ではなく、赤子を中心とした自身の世界の絶対的な主となる。この観点から見れば、この物語は、知的なエゴイズム(保吉)が、より根源的で強力な生命のエゴイズム(母となった女)を前にして、いかに無力であるかを描いた物語としても解釈できるのである 。  

テクストに潜む毒—深読みの可能性

さらに、この簡潔なテクストには、より踏み込んだ、毒のある解釈を誘発する複数の要素が巧妙に配置されている。これらは断定できるものではないが、作品の多層性を豊かにする重要な視点である。

解釈1:時間軸の謎と托卵(たくらん)疑惑

一部の批評家は、物語内の時間経過を詳細に計算している。保吉が初めて女を見た「或初夏の朝」(7月と仮定)から、彼女が赤子を抱いて現れる「翌年の二月の末」まで、期間は約8ヶ月である。この計算に基づけば、保吉が彼女の「純粋さ」に魅了されていたまさにその時、彼女は既に妊娠2ヶ月ほどであった可能性が浮上する 。

この解釈は、保吉の観察眼の皮肉な限界を暴き出す。さらに踏み込み、夫が眇(すがめ)であるという特徴から、子の父親が本当に夫なのかという「托卵」の可能性を読み込む批評さえ存在する 。この場合、「古来如何なる悪事をも犯した、恐ろしい『母』」という一節は、単なる比喩ではなく、文字通り彼女の「罪」を暗示する言葉として、不気味な響きを帯び始める。  

解釈2:遺伝への言及と「すがめ」の連鎖

夫の身体的特徴である「眇(すがめ)」もまた、多義的である。この言葉が、単なる斜視だけでなく、「ものの見方や考え方が見当違いであること」を意味する点に着目する研究もある 。

さらに、赤子をあやす「あばばばば」という行為自体が、赤子が夫と同じ遺伝的な斜視を持っていることを隠すため、あるいはそれに対する母親の反応であるという、極めて毒のある解釈も提示されている 。

これは、芥川が晩年の作品『河童』などで繰り返し描いた、遺伝(特に自身の母の狂気の遺伝)に対する根深い恐怖と絶望と共鳴する読みであり、この穏やかに見える小品に、暗い深淵を与えている。  

結論:「あばばばば」が現代に問いかけるもの

芥川龍之介の「あばばばば」は、大正末期の不安な社会情勢の中で、一個人の視点を通して、生命の不可逆的な変化、それに伴う美意識の喪失、そして母性という根源的な力が持つ両義性を描き出した、極めて密度の高い短編である。

物語は、一人の女性の変容というごくありふれた日常的な出来事を切り取りながら、その背後に、関東大震災という歴史的カタストロフィの影、作者自身の精神的危機、そして「娘」と「母」、「聖」と「俗」、「知性」と「生命」といった普遍的な対立項を巧みに織り込んでいる。保吉が最後に感じた喪失感と戸惑いは、抗いようのない変化を前にした近代知識人の姿そのものであり、また、合理性では割り切れない生命の力強さへの畏怖の念でもある。

この短い物語は、発表から100年の時を超えて、我々現代の読者に対し、変化とは何か、成長とは何か、そして我々が日々の営みの中で失い、また得ていくものは何かという、根源的な問いを静かに、しかし鋭く投げかけ続けているのである。

Ababababa by Ryūnosuke Akutagawa: A Deep Analysis of Motherhood, Loss, and Transformation


TL;DR

This article offers an in-depth literary analysis of Ryūnosuke Akutagawa’s short story Ababababa, exploring its complex portrayal of motherhood, the psychological tension of its male protagonist, and the symbolic weight of societal change in post-earthquake Taisho Japan.


Background and Context

Published in 1923 shortly after the Great Kanto Earthquake, Ababababa is one of Akutagawa’s later works and part of the “Yasukichi series,” which reflects the author’s own psychological decline and intellectual detachment. The story was serialized in Chūō Kōron during a period of social upheaval and personal turmoil for Akutagawa.


Plot Summary

The protagonist, Horikawa Yasukichi, becomes fascinated with a shy young woman who works at a local tobacco shop. Initially seeing her as a delicate object of aesthetic interest, he later encounters her transformed into a bold and unapologetic mother, caring for her child in public without shame. The utterance “ababababa” — a baby talk phrase — becomes a symbol of irreversible change, both personal and social.


Key Themes and Concepts

  • Transformation from daughter to mother: The story reveals the tension between aesthetic idealization and biological reality.
  • Ambivalence of motherhood: The mother figure embodies both a sacred and fearsome force — nurturing yet capable of destruction.
  • Crisis of intellectual identity: Yasukichi’s detachment reflects Akutagawa’s growing unease with rationalism amid social disorder.
  • Post-quake trauma: The narrative subtly mirrors the collective psychological shifts after the 1923 earthquake.

Differences from the Manga

(Not applicable; this work does not have a manga adaptation.)


Conclusion

Ababababa may appear to be a minor piece in Akutagawa’s oeuvre, but it encapsulates profound anxieties about gender, change, and the limits of intellect. A simple utterance becomes the vehicle for a deep meditation on loss, motherhood, and modern identity — themes that still resonate today.

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