【完全解説】ジョセフ・ワイズマンの二つの顔:007の冷酷な悪役と称賛された舞台俳優

ジョセフ・ワイズマン

ジョセフ・ワイズマンと聞けば、多くの映画ファンの脳裏には、ジェームズ・ボンドがスクリーン上で初めて対峙した大物悪役、ドクター・ジュリアス・ノオの冷徹な姿が浮かぶでしょう。しかし、この象徴的なイメージの裏には、もう一つの、あまり知られていないながらも彼にとって非常に重要な顔がありました。それは、ブロードウェイの舞台で「アメリカ演劇界で最も不気味な俳優」と称賛された、演劇への深い献身です。

目次

知的悪役の代名詞:ワイズマンの映画人生

モントリオールからブロードウェイへ:初期の人生と舞台への目覚め

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3

ジョセフ・ワイズマンは、1918年5月15日、カナダのケベック州モントリオールで、ユダヤ系の両親ルイスとパール・ワイズマンの間に生を受けました。その後、一家はニューヨーク市に移り住み、そこが彼の演劇キャリアの中心地となります。

彼の演技への情熱は早くから芽生え、わずか16歳でサマーストック(夏季限定の劇団)の舞台に立ち始めました。しかし、この俳優への道は当初、両親の反対にあったといいます。それでも彼の決意は固く、1935年6月にはニューヨーク州クイーンズのジョン・アダムズ高校を卒業しました。

1938年、ワイズマンはロバート・E・シャーウッド作『エイブ・リンカーン・イン・イリノイ』の端役でブロードウェイデビューを果たします。その後、1930年代から40年代にかけて、シェイクスピアの『リア王』、クリフォード・オデッツの『ゴールデン・ボーイ』、アントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』といった重要な作品に出演し、批評家から絶賛されました。

「最も不気味な俳優」:ワイズマンの輝かしい舞台キャリア

ジョセフ・ワイズマンは、ブロードウェイで広範かつ影響力のあるキャリアを築き上げ、「アメリカ演劇界で最も不気味な俳優」と称されるほどの独特で強烈な舞台上の存在感を示しました。

彼の舞台キャリアにおける重要なマイルストーンの一つが、1951年の『探偵物語』です。この作品で彼はチャーリー・ジェンニーニという名の第一強盗を演じ、後に映画版でも同役を再演。この舞台での演技が、後にドクター・ノオ役に繋がる決定的な要因となりました。

そして、彼の舞台俳優としての頂点を示すのが、1968年から1969年にかけて上演された『J・ロバート・オッペンハイマーの件に関する調査』でしょう。この作品でタイトルロールを演じたワイズマンは、ニューヨーク批評家協会賞の最優秀演技賞を受賞しました。

ジョセフ・ワイズマン:主なブロードウェイ出演作

作品名役名
1938エイブ・リンカーン・イン・イリノイアンサンブル
1946ジャンヌ・ド・ロレーヌシャンプラン(またはマシュー神父)
1951探偵物語第一強盗(チャーリー)
1952ゴールデン・ボーイ(リバイバル)エディ・フゼリ
1955ひばり宗教裁判官
1964ヴィシーでの出来事ルデュック
1969J・ロバート・オッペンハイマーの件に関する調査J・ロバート・オッペンハイマー
1976ザルメン、あるいは神の狂気ラビ
2001ニュルンベルク裁判ヴィッケルト博士

映画での成功後も、ワイズマンは一貫して舞台に戻り、演劇への愛着を公言していました。彼はかつて「舞台上で演じられる人生は、私にとって全く魅力的なものだ。そして演技は、虚栄心から始まるかもしれないが、それが何か他のものに取って代わられることを願う。私は虚栄心というハードルを乗り越えられたと願っている」と語っています。

ハリウッドからの誘い:銀幕への進出

ブロードウェイでの確固たる地位を築いたワイズマンのもとに、ハリウッドからの誘いが舞い込むのは自然な流れでした。彼の映画界への本格的な進出は、1950年代初頭に始まります。

特筆すべきは、1951年の映画『探偵物語』です。この作品で彼は、ブロードウェイで演じた「不安定な小悪党」チャーリー・ジェンニーニ役を再演しました。カーク・ダグラス主演のこの映画は批評家からも高く評価され、アカデミー賞4部門にノミネートされました。

「探偵物語」
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翌1952年には、エリア・カザン監督、マーロン・ブランド主演の『革命児サパタ』に出演。ブランド演じるサパタの宿敵フェルナンド・アギーレを演じました。

「革命児サバタ」
引用元:https://eiga-pop.com/person/57474

この作品もアカデミー賞5部門にノミネートされ、アンソニー・クインが助演男優賞を受賞するなど高い評価を得ました。

007伝説の始まり:ドクター・ノオの誕生

悪の顔:初代ボンド・ヴィラン、ドクター・ノオの誕生

ジョセフ・ワイズマンの名を世界に轟かせたのは、間違いなく1962年の映画『007 ドクター・ノオ』における悪役、ドクター・ジュリアス・ノオ役でしょう。イオン・プロダクションズによるジェームズ・ボンド映画シリーズの記念すべき第1作で、プロデューサーのハリー・サルツマンがワイズマンをこの役に抜擢したのは1961年12月のことでした。そして、このキャスティングの決め手となったのが、前述の映画『刑事物語』でのワイズマンの演技だったのです。

ワイズマンが演じたドクター・ノオは、複雑な背景を持つキャラクターでした。表向きは有能な科学者でありながら、ナポレオン・コンプレックスを抱えていることが示唆され、「ドイツ人宣教師と良家の中国人女性の間に生まれた望まれぬ子」と自称していました。

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この象徴的な役柄について、ワイズマン自身は複雑な感情を抱いていました。後年、彼はこの映画を軽蔑的に見ており、自身のキャリアは演劇で記憶されることを望んでいました。しかしその一方で、ジェームズ・ボンド映画シリーズ最初の主要な悪役を演じたことには誇りも感じていたといいます。

『007 ドクター・ノオ』は、約110万ドルの製作費に対し、約6000万ドルの興行収入を記録する大成功を収めました。ワイズマンがドクター・ノオに与えた、単なる肉体的な残忍さではなく、冷徹で知的な脅威という性格描写は、「知的なボンド・ヴィラン」という原型を確立したと言えるでしょう。

ボンドを超えて:多様なフィルモグラフィ

ドクター・ノオ役で国際的な名声を得たジョセフ・ワイズマンですが、彼の映画キャリアはそれだけに留まりません。その多様なフィルモグラフィは、彼の俳優としての幅広さを示しています。

特筆すべき作品の一つに、1974年のカナダ映画『ダディー・クラヴィッツの徒弟時代』があります。この作品で彼はベンジー・クラヴィッツ叔父さんを演じました。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞するなど国際的に高い評価を受け、「カナダ映画の成人式」と評されるほどカナダ映画界にとって重要な作品となりました。

ジョセフ・ワイズマン:主な映画出演作

作品名役名
1951探偵物語チャーリー・ジェンニーニ
1952革命児サパタフェルナンド・アギーレ
1960許されざる者エイブ・ケルシー
1962007 ドクター・ノオドクター・ジュリアス・ノオ
1968さよならブレイバーマンフェリックス・オッテンシュタイン
1968ミンクス、ストリップ合戦ルイス・ミンクス
1972バラキサルヴァトーレ・マランツァーノ
1974ダディー・クラヴィッツの徒弟時代ベンジー・クラヴィッツ
1978ベッツィージェイク・ワインスタイン
1986シーズ・ザ・デイアドラー博士

テレビと文化活動:ワイズマンの多面性

小さな画面での圧倒的な存在感:ワイズマンのテレビドラマ出演

ジョセフ・ワイズマンの活躍の場は、映画や舞台だけに留まりませんでした。テレビドラマにおいても、彼はその独特の存在感で視聴者を魅了し続けました。

特に記憶されるべきは、1986年から1988年にかけて放送されたテレビシリーズ『クライム・ストーリー』での犯罪組織のボス、マニー・ワイズボード役でしょう。このレギュラー出演は、彼が一つのキャラクターを時間をかけて掘り下げる機会となりました。

また、彼のテレビキャリアにおける象徴的な出演作として、1959年の『トワイライトゾーン』のエピソード「もう一人の埋葬人(One More Pallbearer)」が挙げられます。

彼の最後のテレビ出演は、1996年の『ロー&オーダー』のエピソード「ファミリー・ビジネス」におけるシーモア・バーグリーン役でした。

役柄の裏の学者:文芸の人

ジョセフ・ワイズマンの人生には、俳優としての華々しいキャリアとしばしば対比される、もう一つの重要な側面がありました。それは、ユダヤ教学者としての一面です。この知的な探求は、彼の演技活動と並行して続けられました。

彼はイディッシュ語文学やユダヤ文学の朗読会を行うために広範囲に旅をし、その文化的遺産への深い造詣を示しました。この活動は、彼が自身のルーツと文化に強いコミットメントを持ち、それを他者と分かち合いたいという願望を抱いていたことを物語っています。

また、彼の声優としての才能は、1977年にアカデミー賞にノミネートされたハリー・ラスキー監督のドキュメンタリー映画『シャガールへのオマージュ:愛の色(Homage to Chagall: The Colours of Love)』でも活かされました。この作品は、著名なロシア系ユダヤ人画家マルク・シャガールに関するもので、ワイズマンはそのナレーションを担当しました。

私生活と遺産:ワイズマンの真の姿

私生活と晩年

ジョセフ・ワイズマンの私生活に目を向けると、彼は二度の結婚を経験しています。最初の結婚は1943年8月25日、ニューヨークでのネル・キナードとのもので、二人の間には娘マーサ・グレアム・ワイズマンが生まれました。しかし、この結婚は1964年5月15日にノースカロライナ州ダーラムで離婚に至っています。

その後、1964年にダンサーであり、教師、振付師でもあったパール・ラングと再婚しました。パール・ラングは自身も著名な芸術家であり、二人の結婚は彼女が2009年2月に亡くなるまで、約45年間にわたりました。

ジョセフ・ワイズマンは、2009年10月19日、マンハッタンの自宅で91歳の生涯を閉じました。しばらくの間、健康状態が悪化していたと報じられています。彼の死は、ニューヨーク・タイムズ紙、ロサンゼルス・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ガーディアン紙といった主要な新聞でも報じられ、彼の演技界における重要性が改めて示されました。

永遠の遺産:ドクター・ノオだけではないジョセフ・ワイズマン

ジョセフ・ワイズマンが残した遺産は、単に「ジェームズ・ボンド最初の敵役」という言葉だけでは語り尽くせません。彼のキャリアは演劇、映画、テレビと多岐にわたり、そのそれぞれで強烈な印象を刻み込みました。

もちろん、ドクター・ジュリアス・ノオとしての彼の姿は、映画史における悪役像の礎の一つとして永遠に記憶されるでしょう。彼自身はその役柄に複雑な思いを抱いていたかもしれませんが、その冷徹で知的な悪役像は、その後の多くの作品に影響を与えました。

引用元:https://cinepara.iinaa.net/007.html

しかし、彼の真価は舞台俳優としての深い造詣と、そこで見せた強烈な演技によっても測られるべきです。批評家から「アメリカ演劇界で最も不気味な俳優」と称賛され、数々の難役をこなし、ニューヨーク批評家協会賞を受賞した事実は、彼が真に尊敬されるべき演劇人であったことを物語っています。

ジョセフ・ワイズマンの究極の遺産は、この説得力のある二面性、すなわち国際的に認知された初期のボンド映画の悪役としての顔と、献身的で受賞歴のある舞台人でありユダヤ教学者としての顔、その両方にあると言えるでしょう。大衆文化の象徴と、シリアスな芸術家・知識人との間のこの緊張関係こそが、彼を特に魅力的な人物たらしめているのです。

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