東野圭吾の原作で、雪に閉ざされた山荘が舞台。謎解きが面白そうだと思って観始めた。
観終わって残ったのは、謎を解いた満足ではなかった。どんでん返しを重ねた救済劇を、少し離れた場所から眺めていたような感覚だった。
以下、結末に触れる。
謎解きの映画ではなかった

劇団「水滸」の最終オーディションに、7人の役者が集められる。課題は、雪で孤立した山荘という設定で、4日間、連続殺人事件を演じること。2日目に笠原温子が、3日目に元村由梨江が「殺される」。凶器の花瓶には血が付いていて、これが芝居なのか本物なのか分からなくなっていく。
ここまでは期待どおりだった。
だが真相は、推理で犯人にたどり着く種類のものではない。オーディションは麻倉雅美が仕組んだ復讐劇で、その裏で本多雄一が狙われた3人と組み、麻倉に復讐が成功したと思わせる芝居を打っていた。芝居の中に芝居があり、さらにその中に芝居がある。
仕掛けとしてはよくできている。ただ、観ている側が手がかりを拾って推理する余地はほとんどない。最後に構造を明かされて、そういうことかと受け取るだけだ。
解く側のつもりで観ていたのに、いつの間にか説明される側に回されていた。
「救う話」として観れば筋は通る

謎解きではなく、役者たちが「演じること」で人を救う話として観るべきだ、という見方がある。
それは分かる。嘘の殺人で、本物の殺人を止める。芝居で人を救う。そう観れば筋は一貫している。
ただ、謎解きを期待して観始めた人間にとって、これは慰めに近い。別の見方をすれば面白い、というのは、最初の期待には応えていないということでもある。
どんでん返しは一回でよかった

オーディションだと思っていたら、復讐劇だった。ここで一度ひっくり返る。それで十分だった。
ところが、その復讐劇もまた別の芝居だったと明かされる。二度目の返しで、一度目の驚きが上書きされる。モニターの向こうで怯えていた3人も、実は承知のうえで演じていたことになる。さかのぼって、観ていたこちらの緊張まで嘘になってしまう。
返すたびに、前の驚きが軽くなる。重ねるほど効かなくなる。
原作がある以上、この構造は動かせないのだろう。そこは仕方がない。それでも映画としては、一回で止めてくれたほうがずっと効いたと思う。
救済がきれいすぎる
二度目の返しで、物語は救う話に着地する。
麻倉は過去の出来事で女優としての道を断たれ、3人を恨んでいた。それだけの憎しみが、本多の計画であっさりほどけていく。最後は舞台の上で喝采を浴びる場面で終わる。
手際がよすぎる。狙われた3人の側も、殺される役をやりきったことで、何かを清算したように見える。麻倉が抱えていたものの重さに比べて、収まり方が軽い。
きれいに終わるほど、何かを置き去りにしたように見えた。
若い顔ぶれと、知らない主人公

並んでいるのは若い役者ばかりだ。雪の山荘で殺人が起きているはずなのに、画面にあまり重さが出ない。骨太で重厚なミステリーを期待して観ると、どこか軽い。
主人公の久我和幸を演じるのは重岡大毅。これまで観てきた映画やドラマのどこかに出ていたのかもしれないが、記憶にない。WEST.というアイドルグループのメンバーらしいが、そのグループ名も聞いたことがなかった。おじさんには縁のない世界だ。

久我は、7人の中で唯一の部外者として山荘に入ってくる。観客は本来、彼の戸惑いに付き合いながら事件を追うことになる。ところがこちらにとっては、演じている本人が見知らぬ人だった。脇の役者のほうがよほど顔なじみで、目は久我ではなく周りの顔に向きがちだった。
これは作品の欠点というより、こちらの事情だ。それでも、観客の代わりに立つ人物に乗れないと、この映画は一段遠くなる。真相が明かされる場面も、驚くより、なるほどと眺める距離で観ていた。
あとになって、NHKのドラマ『これは経費で落ちません!』を観て、ようやく重岡大毅という人が自分の中に残った。あのドラマを先に観ていたら、久我の目線で山荘に入れたのかもしれない。
救済劇をきれいすぎると感じたのも、たぶんこの軽さと距離のせいだと思う。

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