1931年、アルフレッド・ヒッチコックは自身初めて、そして唯一となるドイツ語映画「Mary」を発表しました。この作品は、前年に制作した英語版「Murder!」のリメイクでしたが、単なる翻訳版ではありませんでした。本記事では、なぜヒッチコックがドイツ語版を制作することになったのか、そしてそこに込められた意図と、主演を務めた伝説的な俳優たちの知られざる物語に迫ります。
以前に執筆した「Murder!」(日本語名「殺人!」)にあらすじと考察が書かれているので、こちらを先に読んでいただけると、より深く理解できると思います。
「Mary」の制作背景
トーキー映画時代の到来と言語の壁
1930年代初頭は、サイレント映画からトーキー映画への移行期でした。それまで国境を超えて享受されていた映画が、突如として言語の壁に直面することになったのです。この課題に対応するため、同じ作品を異なる言語で制作する「多言語版映画」が一つの解決策として浮上しました。
ドイツ市場の重要性
当時、ドイツは映画産業が最も発達した国の一つでした。ヒッチコック自身、1920年代にドイツで6年間を過ごし、ドイツ映画から多大な影響を受けていました。そのため、「Murder!」のドイツ語版制作は、単なるビジネス的判断以上の意味を持っていました。
アルフレート・アーベルの生涯と功績
演劇から映画へ
アルフレート・アーベル(1879-1937)は、「Mary」でサー・ジョン役を演じた名優です。ライプツィヒ出身のアーベルは、若くして舞台俳優としてキャリアをスタートさせ、ベルリンの有名劇場で活躍しました。
代表作と演技スタイル
アーベルの代表作は、フリッツ・ラング監督の「メトロポリス」(1927)です。冷酷な支配者ジョー・フレーダーゼン役を演じ、その存在感で観客を魅了しました。彼の特徴は、当時の無声映画としては珍しく抑制された演技スタイルにありました。
トーキー時代への適応
アーベルは、サイレントからトーキーへの移行を見事に果たした俳優の一人でした。舞台経験を活かした豊かな声量と演技力は、「Mary」でも遺憾なく発揮されました。
オルガ・チェホーワの波乱の人生
ロシアからの亡命
オルガ・チェホーワ(1897-1980)は、「Mary」のヒロイン役を演じました。彼女は作家アントン・チェーホフの姪という芸術家の血を引き、ロシア革命後にドイツへ亡命した波乱の人生の持ち主でした。
ドイツ映画界での活躍
1920年代から1950年代にかけて、チェホーワはドイツ映画界を代表する女優の一人として活躍しました。F.W.ムルナウ監督の「タルチュフ」(1925)やG.W.パプスト監督の「愛なき世界」(1926)など、数々の名作に出演しています。
戦後の評価
第二次世界大戦中もドイツに留まり映画出演を続けたため、戦後は批判を受けることもありました。しかし、彼女の演技力は高く評価され、晩年はミュンヘンで化粧品会社を経営しながら、時折映画にも出演していました。
「Murder!」と「Mary」の違い
上映時間と構成
英語版の「Murder!」が101分であるのに対し、「Mary」は82分と約20分短くなっています。これは単なる尺の問題ではなく、ドイツ市場向けに内容を再構成した結果でした。
プロットの変更
最も注目すべき変更は、犯人の動機です。英語版では「混血であることを隠すため」だった動機が、ドイツ語版では「逃亡中の犯罪者であることを隠すため」に変更されています。これは当時のドイツの社会状況を反映した変更だと考えられます。
演出の違い
クライマックスの空中ブランコのシーンなど、一部の演出に違いが見られます。これらの変更は、単に文化的な違いを反映させただけでなく、当時のドイツの政治的・社会的状況も考慮したものでした。
物語のあらすじと主要な変更点
基本的なストーリー
ある夜、女優メリー・ベアリング(オルガ・チェホーワ)の下宿で殺人事件が起きます。状況証拠からメリーが逮捕され、死刑を宣告されますが、陪審員の一人だった高名な役者ジョン・メニアー(アルフレート・アーベル)が彼女の無実を信じ、真相究明に乗り出すという展開です。
英語版からの変更点
- 陪審員のシーンが大幅に短縮
- Sir Johnの人物描写がより簡潔に
- エンディングの共演シーンの削除
トーンの違い
ドイツ語版は英語版と比べてより暗いトーンで描かれており、これは当時のドイツ映画の傾向を反映したものと考えられます。
作品の意義と影響
映画史における位置づけ
「Mary」は、初期トーキー時代における多言語版映画の重要な例として、映画史上重要な位置を占めています。同時に、ヒッチコック唯一のドイツ語映画としても注目されています。
技術的な革新
同じ物語を異なる言語で撮影する際の技術的な課題に対する解決策を示した作品としても評価されています。
文化的な意義
映画における文化的適応の初期の例として、現代のリメイク作品研究にも示唆を与える作品となっています。
まとめ
「Mary」は、単なるドイツ語版リメイクを超えて、1930年代初頭の映画産業が直面していた課題と、その解決への試みを体現した作品でした。同時に、アルフレート・アーベルとオルガ・チェホーワという二人の伝説的な俳優の競演も実現し、映画史に特別な一頁を刻むことになりました。
彼らの演技と存在感は、言語の壁を超えて観客を魅了し続けています。また、この作品は多言語版映画の可能性と限界を示す重要な事例として、現代の映画研究においても重要な示唆を与え続けているのです。