【コロンボ役で世界的人気】なぜピーター・フォークは今も愛され続けるのか

ピーター・フォークという俳優の名は、多くの人々にとってテレビドラマ「刑事コロンボ」の主人公、コロンボ警部補の姿と分かちがたく結びついています。そのよれよれのレインコートにくわえ煙草、鋭い知性を内に秘めた風貌は、世界中の視聴者を魅了し、テレビ史に不滅の足跡を残しました。
しかし、この象徴的な役柄の陰には、フォーク自身の豊かで多岐にわたるキャリアと、複雑な人間性が隠されています。コロンボという強烈なイメージの裏には、アカデミー賞にノミネートされるほどの演技力、アートハウス系の監督との協働、そして波乱に富んだ私生活など、語り尽くせぬ物語が存在します。
【義眼と不屈の精神】若き日のピーター・フォークの挫折と成功
生い立ちと幼少期のハンディキャップ
ピーター・マイケル・フォークは、1927年9月16日、ニューヨーク市のブロンクス区で生まれ、ニューヨーク州オシニングで育ちました。父親のマイケル・ピーター・フォークは衣料品および雑貨店を経営し、母親はマデリーン(旧姓ホックハウザー)でした。
フォークの人生は、幼少期から試練と共にありました。3歳の時、網膜芽細胞腫という悪性腫瘍のため右目を手術で摘出。以来、生涯のほとんどを義眼で過ごし、これが彼のトレードマークとも言える独特の眇めたような視線を生み出しました。しかし、彼はこのハンディキャップに屈することなく、むしろ持ち前のウィットと不屈の精神で乗り越えていきます。
教育と初期のキャリア:意外な経歴
1945年にオシニング高校を卒業したフォークは、同校ではスター運動選手であり、卒業クラスの会長も務めました。第二次世界大戦中に軍への入隊を試みますが、義眼を理由に拒否され、商船のコックとして働く道を選びます。
戦後、再び学業に戻り、最終的に1953年にシラキュース大学大学院で行政学修士号(MPA)を取得。卒業後はコネチカット州ハートフォードの州予算局で効率専門家として勤務し、公認会計士(CPA)の資格も有していました。
俳優への転身:舞台から始まった新たな道
フォークの演技への情熱は高校時代に芽生えていました。州職員として働く傍ら、ハートフォードのコミュニティ劇団「マーク・トウェイン・マスクァーズ」に参加。さらに、ウェストポートのホワイトバーン劇場でエヴァ・ル・ガリアンヌに、またサンフォード・マイズナーにも師事し、演技を学びました。
1955年頃には俳優になることを決意し、1956年にはプロの俳優としてのキャリアを追求するためグリニッジ・ヴィレッジに移り住み、オフ・ブロードウェイの舞台に立つようになります。高校の演劇で病欠した生徒の代わりに刑事役を演じたというエピソードは、彼の将来を暗示する興味深い出来事と言えるでしょう。
【シリーズ成功の裏側】「刑事コロンボ」誕生秘話と演技術
コロンボというキャラクターの誕生
コロンボというキャラクターは、ピーター・フォークがその役を演じる約10年も前に、ウィリアム・リンクとリチャード・レビンソンによって創造されました。その着想の源泉は、ドストエフスキーの『罪と罰』に登場する抜け目ないが回りくどい捜査官ポルフィーリー・ペトロヴィッチであったと言われています。
キャラクターが初めて登場したのは、1960年のテレビアンソロジーシリーズ『シボレー・ミステリー・ショー』の一編「殺人処方箋(Enough Rope)」で、この時はバート・フリードがコロンボ役を演じました。その後、テレビドラマは舞台劇へと改作され、コロンボのキャラクターはよりよれよれで卑屈な、後のフォーク版に近いものへと変化していきました。
ピーター・フォークとコロンボ:役柄と俳優の完璧な融合

ピーター・フォークが初めてコロンボとして登場したのは、1968年のテレビ映画『殺人処方箋』でした。当初、テレビ版のコロンボ役にはビング・クロスビーが最有力候補でしたが、彼はゴルフに専念したいとして辞退。40歳だったフォークは「若すぎる」と考えられていましたが、最終的に彼が役を射止めました。
フォークは、自身の個性を注ぎ込み、コロンボに新たな命を吹き込みました。
- レインコート:1967年にニューヨークで雨に降られた際、15ドルで購入した彼自身のコート
- 葉巻、スーツ、ブーツ:これらもフォーク個人のものでした
- アドリブ:鉛筆を求めたり、ポケットを探ったり、「うちのカミさんがね…」と言ったりする仕草は、共演者を苛立たせ、本物の当惑を引き出すためのフォークのアドリブ
フォーク自身は「実生活の私はさしずめ街角の小僧といった感じ。着るものに無頓着で、警部に負けず劣らず変わり者」と語っており、彼とコロンボがいかに深く結びついていたかがうかがえます。
シリーズ成功の理由:独創的なミステリー形式と魅力的なキャラクター
「刑事コロンボ」シリーズの成功は、いくつかのユニークな要素によって支えられていました:
- 倒叙ミステリー形式(ハウキャッチェム):物語の冒頭で犯人と犯行が視聴者に明かされる
- 個性的な主人公:労働者階級のヒーローとして、裕福で特権階級の犯人を打ち負かす
- ユーモアと人間ドラマ:残虐な描写を避け、クスッと笑える場面や温かい会話劇
- 知的な物語構成:コロンボの推理は論理的で、ミステリーファンの知的好奇心を満たす
- 豪華なゲスト陣:ロバート・カルプやジャック・キャシディなど著名な俳優が犯人役
コロンボの名言・小道具と放送形態
コロンボ警部補のトレードマークとなった要素には以下のようなものがあります:
- 決め台詞:「うちのカミさんがね…」「あ、それからもう一つだけ…」
- ファーストネーム:シリーズ中では一貫して明かされず(証拠品の袋に「フランク」と記載あり)
- 愛犬「ドッグ」:よれよれのバセットハウンド

- 愛車:オンボロの1960年型プジョー403カブリオレ

- その他の特徴:チリコンカンが好物、銃を嫌う、チューバの演奏に長ける
受賞歴と批評的評価:エミー賞に輝いた名演技
「刑事コロンボ」シリーズとピーター・フォークの演技は、数々の栄誉に輝きました:
- フォークはコロンボ役でプライムタイム・エミー賞主演男優賞を4度(1972年、1975年、1976年、1990年)受賞
- 1973年にはゴールデングローブ賞テレビドラマ部門主演男優賞を受賞
- シリーズ自体もエミー賞やゴールデングローブ賞の作品賞を受賞
【知られざる演技力】コロンボを超えた多彩な俳優ピーター・フォーク
映画俳優としての輝かしい功績:アカデミー賞ノミネートの実力
フォークの映画デビューは1958年の『エヴァグレイズを渡る風』での小さな役でした。しかし、彼の才能が本格的に注目されるのはそれから間もなくのことです:
- 1960年の『殺人会社』で演じた冷酷な殺し屋エイブ・レルズ役でアカデミー賞助演男優賞にノミネート

- 翌1961年の『ポケット一杯の幸福』でも2年連続でアカデミー賞助演男優賞にノミネート

ピーター・フォークは同じ年にアカデミー賞とエミー賞の両方にノミネートされた最初の俳優となりました。
ジョン・カサヴェテスとの協働:アート映画での評価

フォークのキャリアにおいて、インディペンデント映画の巨匠ジョン・カサヴェテスとの協働は特筆すべきものです。
- 『ハズバンズ』(1970年):親友の突然の死をきっかけに羽目を外す中年男性の一人、アーチーを演じる
- 『こわれゆく女』(1974年):精神的に不安定な妻を持つ夫ニック・ロンゲッティを演じ、「啓示的」と称賛される
- 『マイキー&ニッキー』(1976年):エレイン・メイ監督のもと、カサヴェテス演じるニッキーの旧友マイキー役を演じる
象徴的なコメディとファンタジー作品

コロンボとは異なる魅力を見せた作品も多数あります。
- 『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年):多くの人々に愛される祖父の語り手役
- 『ベルリン・天使の詩』(1987年):ヴィム・ヴェンダース監督の高く評価された作品で、元天使である「本人役」として出演
- 『あきれたあきれた大作戦』(1979年):アラン・アーキンと共演し、型破りなCIA諜報員を演じる
舞台俳優としての情熱と実績
フォークは映画やテレビだけでなく、舞台にも情熱を注ぎました。彼の舞台キャリアは1956年にオフ・ブロードウェイでのデビューから始まり、同年にはブロードウェイでも『ならず者の日記』や『聖女ジャンヌ』に出演しています。
特に注目すべきは、『おかしな夫婦』の原作者として知られるニール・サイモンの『第二アベニューの囚人』(1971年-1972年)で、フォークはメル・エジソン役を創始し、リー・グラントと共演しました。この作品はトニー賞にもノミネートされ、批評家からはサイモンの「最も正直に面白いコメディ」と高く評価されました。フォークの独特の間合いがこの役柄に見事に合っていたとされています。
その後も彼は舞台での活動を続け、1985年から1986年にかけては、デヴィッド・マメットの名作『グレンギャリー・グレン・ロス』でシェリー・レーヴィン役を演じるなど、多彩な舞台俳優としての実績を残しました。彼にとって舞台は、テレビや映画とは異なる表現の場であり、観客との直接的な交流を通じて芸術性を追求する重要な創造活動だったのです。
【私生活と真実の姿】芸術家、家族、そして晩年のピーター・フォーク
芸術家としての一面:スケッチと絵画への情熱
ピーター・フォークは俳優業の傍ら、熱心な芸術家としても活動していました。特にスケッチを得意とし、ヌード画を好んで描くことに情熱を注いでいたと言われています。
彼の芸術作品は評価も高く、「青いブラウスの少女」や「女性」といった作品がオークションに出品されたこともあります。その芸術的才能は国際的にも認められ、日本でも個展が開催されるほどでした。フォーク自身、2006年に出版した自伝『もうひとつだけ』の中に、コロンボのスケッチを含む自身の作品をいくつか掲載しており、インタビューでは映画製作よりもプレッシャーが少ない芸術活動の魅力について語っていました。
この芸術への情熱は、彼の多才な人格の重要な一面であり、俳優としての表現活動とは異なる、より個人的で内省的な創造性の発露であったと言えるでしょう。
結婚と家族生活:2度の結婚と波乱の人生
ピーター・フォークは生涯に2度結婚しています。
最初の結婚
アリス・キャロライン・メイヨ(1960年~1976年) フォークは1960年4月17日、大学時代の恋人であり女優のアリス・メイヨと結婚しました。二人の間には養女が二人おり、キャサリン(後に実生活で私立探偵となる)とジャッキーでした。

引用元:https://blog.goo.ne.jp/hanamamagon/e/3ef72a983d99358c703018a9274bc2ba
この結婚生活は16年後の1976年に終わりを告げることになります。離婚の原因としては、「刑事コロンボ」の撮影に追われるフォークの多忙なスケジュール(週末を含む1日12時間労働)や、彼の女性関係が報じられています。慰謝料は150万ドルにのぼったとも言われています。
2度目の結婚
シェラ・ダネーゼ(1977年~2011年、フォークの死まで) 1977年12月7日、フォークは女優のシェラ・ダネーゼと再婚しました。二人は映画『マイキー&ニッキー』の撮影現場で出会い、シェラはフォークより22歳年下でした。この結婚はフォークが亡くなるまでの33年以上続きました。

シェラは「刑事コロンボ」シリーズに6エピソード出演し、これはシリーズ最多出演女優の記録となっています。二人の関係は情熱的であると同時に波乱に富み、「喧嘩っ早いフォーク夫妻」とあだ名されるほどだったと言われています。
フォークの墓石には「私はここにいない。シェラと家にいる」と刻まれていますが、これはシェラが選んだ言葉であり、フォーク自身は「もうひとつだけ…」を望んでいたという逸話も残されています。
アルツハイマーとの闘い:晩年と遺産
フォークは2007年頃にアルツハイマー病と診断され、最終的には自身がコロンボを演じたことさえ思い出せなくなりました。2011年、83歳で生涯を閉じるまで、記憶や認識能力の喪失と闘い続けました。闘病中、娘のキャサリンは父親との面会が妨げられたと主張し、この経験から「ピーター・フォーク法」が誕生。成年後見制度下にある人々への家族の面会権を保護するこの法律は、2016年までに10州以上で制定され、彼の名は演技だけでなく社会貢献としても残りました。
【永遠の足跡】ピーター・フォークが残した不朽の遺産
ピーター・フォークはコロンボ警部としての演技を通じ、テレビ史に消えることのない足跡を残しました。そのよれよれのレインコートととぼけた態度は文化的アイコンとなり、労働者階級のヒーローとしての姿は1970年代の階級対立やフェミニズムを反映していました。『セサミストリート』のパロディや、ハンガリーに建てられた銅像が国際的人気を示し、『名探偵モンク』など現代の刑事ドラマにも影響を与え続けています。
「あ、それからもう一つだけ…」:今日に残る記憶

ピーター・フォークが私たちに残したものは、忘れがたいコロンボ警部補の姿だけではありません。彼の多才な俳優としての幅広い実績、アカデミー賞にノミネートされた初期の映画出演、カサヴェテスとの芸術的な協働、そして世界中の観客を魅了した様々な役柄は、彼の演技力の深さと多様性を証明しています。
義眼という個人的な困難を乗り越えて大成功を収めた彼の人生は、不屈の精神の証であり、芸術家としての創造性や家族への愛情も彼の豊かな人間性の一部でした。さらに「ピーター・フォーク法」を通じた社会的貢献は、彼の遺産が芸術の枠を超えて広がっていることを示しています。
彼の作品は今もなお私たちを楽しませ、インスピレーションを与え、研究対象となっています。「あ、それからもう一つだけ…」という言葉を聞くたびに、私たちはピーター・フォークという稀有な才能を思い出すことでしょう。
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