映画史にその名を深く刻み、世代を超えて愛され続ける俳優、サー・トーマス・ショーン・コネリー。彼の名を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、タキシードを粋に着こなし、ウォルサーPPKを手に世界を股にかける英国秘密情報部員ジェームズ・ボンドの姿でしょう。
しかし、ショーン・コネリーの功績は、007シリーズの初代ジェームズ・ボンド役という枠に収まりきるものではありません。スコットランドの労働者階級の出身から、数々の困難を乗り越えて映画界の頂点に上り詰め、アカデミー賞俳優としての栄誉にも輝いた彼の生涯は、まさに波乱万丈の物語です。
この記事では、ショーン・コネリーという不世出のスターについて、その生い立ちから俳優としての輝かしいキャリア、私生活、そして後世に遺した偉大な足跡に至るまで、詳細な情報と深い洞察を交えて徹底的に解説します。
若き日のショーン・コネリー:エディンバラの労働者階級から銀幕のスターへ
生い立ちと家族
トーマス・ショーン・コネリーは、1930年8月25日、スコットランドのロージアン州エディンバラ、ファウンテンブリッジという地区で生を受けました。彼の父親ジョセフ・コネリーは工場労働者兼トラック運転手、母親ユーフェミア・マクリーン・コネリー(愛称エフィー)は掃除婦や洗濯婦として働く、典型的な労働者階級の家庭でした。家族は決して裕福ではなく、幼い頃のコネリーはドレッサーの引き出しをベビーベッド代わりにしていたという逸話も残っています。8歳年下の弟ニール・コネリーは、後にエディンバラで左官職人として働きました。
俳優への道:多様な職歴と海軍時代
貧しい家庭環境のため、コネリーは12歳で初等教育を終えると、協同組合の牛乳配達員として働き始めました。その後も、トラック運転手、労働者、エディンバラ芸術大学の美術モデル(ヌードモデルも務めたと言われています)、棺磨き職人、そしてボディビルダーと、俳優になるまでに実に様々な職を転々としました。
16歳の時にはイギリス海軍に入隊しましたが、後に医学的な問題(胃潰瘍が原因とされています)で除隊しています。海軍時代に、彼は右腕に2つのタトゥーを入れました。一つは「Scotland Forever(スコットランドよ永遠なれ)」、もう一つは「Mum and Dad(母と父へ)」というもので、彼のスコットランドへの愛国心と家族への想いを表しています。
除隊後、コネリーはプロのサッカー選手になるか俳優になるかの岐路に立たされます。サッカーでも才能を発揮していましたが、23歳の時、彼は俳優の道を選ぶ決断をしました。後に彼はこの選択を「より知的な決断の一つだった」と語っています。
初期のキャリア:舞台から映画へ
俳優への道を選んだコネリーの転機となったのは、1953年にロンドンで開催されたミスター・ユニバースのボディビルコンテストへの出場でした。このコンテストで3位に入賞したことがきっかけで、舞台作品のエキストラとして働くようになります。1954年には、ロジャース&ハマースタインのミュージカル『南太平洋』の巡業公演で端役を得て、最終的には主役を演じるまでになりました。
その後も舞台やテレビでキャリアを積み、1957年にはBBCのテレビドラマ、ロッド・サーリング作『ヘビー級レクイエム』で落ち目のボクサー、マウンテン・リベラ役を演じ、高い評価を得ました。
映画デビューは1954年(または1955年)のミュージカル映画『Lilacs in the Spring』(アメリカ公開タイトル『Let’s Make Up』)で、クレジットはエキストラ扱いでした。
初めて名前がクレジットされた映画出演は、1957年の『No Road Back』でスパイク役を演じたこととされています。その後、『Hell Drivers』(1957年)、『Another Time, Another Place』(1958年)、ディズニー映画『Darby O’Gill and the Little People』(1959年)、『The Frightened City』(1961年)といった作品に出演し、徐々に頭角を現していきます。
そして1962年、オールスターキャストの戦争大作『史上最大の作戦』に出演し、その直後に彼の運命を決定づける役と出会うことになるのです。
ジェームズ・ボンド:初代にして最高の007
ボンド役への抜擢:運命の出会い

1962年、ショーン・コネリーは、イアン・フレミング原作のスパイ小説の主人公、ジェームズ・ボンド役として映画『007/ドクター・ノオ』(原題:Dr. No)の主役に抜擢されます。これが彼のキャリアを決定づける、まさに運命の出会いでした。
当初、プロデューサーのアルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンは、ケーリー・グラントをボンド役の第一候補と考えていました。しかし、グラントは当時58歳と高齢であること、そして複数作品への契約に難色を示したため、起用には至りませんでした。他にもパトリック・マクグーハンやデヴィッド・ニーヴン(後に1967年のパロディ作品『カジノ・ロワイヤル』でボンドを演じる)といった名優たちが候補に挙がりました。『ドクター・ノオ』の監督に就任したテレンス・ヤングは、シェイクスピア俳優のリチャード・ジョンソンを推していました。
原作者のイアン・フレミング自身は、当初コネリーの起用に懐疑的でした。フレミングがイメージするボンドは洗練された英国紳士であり、労働者階級出身でスコットランド訛りのあるコネリーは「洗練されていない、ただのがたいのいいスタントマン」のように映ったのです。フレミングはリチャード・トッドのような俳優を望んでいました。
しかし、プロデューサーのブロッコリの妻デイナ・ブロッコリがコネリーの持つカリスマ性を見抜き、夫を説得したことが大きな後押しとなりました。コネリーはオーディションで、その自信に満ちた態度と野性的な魅力でプロデューサーたちを魅了しました。特に、オーディションルームを出て自分の車へ向かう際の彼の歩き方が、「ジャングルの猫のようだった」とサルツマンが後に語ったように、決定的な印象を与えたと言われています。
ボンド役に決まったコネリーに対し、監督のテレンス・ヤングは、ボンドらしい洗練された立ち居振る舞い、話し方、さらには食事のマナーに至るまで徹底的に指導しました。ヤングはコネリーを自身の行きつけの美容院やテーラー(アンソニー・シンクレア)に連れて行き、ボンドとしての外見を磨き上げたのです。
コネリー=ボンド 7作品完全ガイド
ショーン・コネリーは、イーオン・プロダクションズ製作の公式作品6作と、非公式作品1作の計7作品でジェームズ・ボンドを演じました。彼のボンドは、その後のシリーズの方向性を決定づけ、映画史に残るアイコンとなりました。
映画タイトル (英語原題/日本語題) | 製作会社 | 公開年 (日) | 監督 | 予算 (米ドル) | 全世界興行収入 (米ドル) |
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Dr. No / 『007は殺しの番号』 (後に『007/ドクター・ノオ』) | イーオン・プロダクションズ | 1963年6月1日 | テレンス・ヤング | 100万 | 5960万 |
From Russia with Love / 『007/ロシアより愛を込めて』 | イーオン・プロダクションズ | 1964年4月25日 | テレンス・ヤング | 200万 | 7890万 |
Goldfinger / 『007/ゴールドフィンガー』 | イーオン・プロダクションズ | 1965年4月1日 | ガイ・ハミルトン | 300万 | 1億2490万 |
Thunderball / 『007/サンダーボール作戦』 | イーオン・プロダクションズ | 1965年12月11日 | テレンス・ヤング | 900万 | 1億4120万 |
You Only Live Twice / 『007は二度死ぬ』 | イーオン・プロダクションズ | 1967年6月17日 | ルイス・ギルバート | 950万 | 1億1160万 |
Diamonds Are Forever / 『007/ダイヤモンドは永遠に』 | イーオン・プロダクションズ | 1971年12月25日 | ガイ・ハミルトン | 720万 | 1億1600万 |
Never Say Never Again / 『ネバーセイ・ネバーアゲイン』 | タリアフィルム(非イーオン) | 1983年10月7日 | アーヴィン・カーシュナー | 3600万 | 1億6000万 |
1. Dr. No (1962) / 『007は殺しの番号』(後に『007/ドクター・ノオ』に改題)

プロット:ジャマイカで消息を絶った英国諜報員の捜査のため、ジェームズ・ボンドが派遣される。彼は謎の中国人科学者ドクター・ノオと対決する。
予算:100万ドルという、シリーズ中でも極めて低予算で製作されました。
興行収入:全世界で約5960万ドルを記録し、大成功を収めました。これは1962年の映画の世界興行成績で第2位となる記録でした。
評価:批評家からは、コネリーのアクセントや、フレミングの原作のイメージとの違いを指摘する声もありましたが、概ね好評で、アクションやサスペンス、そしてウルスラ・アンドレス演じる初代ボンドガール、ハニー・ライダーの魅力が高く評価されました。映画は、米ソの宇宙開発競争やキューバ危機といった時事性を帯びた作品としても注目されました。
2. From Russia with Love (1963) / 『007/ロシアより愛を込めて』

プロット:ソ連の暗号解読機「レクター」を巡り、ボンドは美しいソ連の諜報員タチアナ・ロマノヴァと共にイスタンブールからベニスへと向かうが、国際的犯罪組織スペクターの罠が待ち受ける。
予算:前作の成功を受け、予算は200万ドルに倍増しました。
興行収入:全世界で約7890万ドルを記録し、前作を上回るヒットとなりました。
評価:多くの批評家やファンからシリーズ最高傑作の一つと評されています。コネリーの演技は人間味が増し、より成熟したボンド像を提示したと高く評価されました。ロバート・ショウ演じる敵役レッド・グラントとの列車内での格闘シーンは特に有名です。
3. Goldfinger (1964) / 『007/ゴールドフィンガー』

プロット:金塊の密輸を企む大富豪オーリック・ゴールドフィンガーと、その用心棒である韓国人殺し屋オッドジョブの陰謀にボンドが立ち向かう。
予算:300万ドル。
興行収入:全世界で約1億2490万ドルという驚異的な興行収入を記録。わずか2週間で製作費を回収しました。
評価:シリーズの方向性を決定づけた作品として名高く、ギミック満載のボンドカー「アストンマーティンDB5」の初登場や、シャーリー・バッシーが歌う主題歌のヒットなど、多くの象徴的な要素を生み出しました。コネリーの演技もリラックスし、自信に満ち溢れていると評されています。アカデミー音響効果賞を受賞しました。
4. Thunderball (1965) / 『007/サンダーボール作戦』

プロット:スペクターに強奪されたNATOの原子爆弾2発の回収任務にボンドが挑む。舞台は主にバハマ。
予算:これまでの3作品の合計を超える900万ドルが投じられました。
興行収入:全世界で約1億4120万ドルを記録し、当時のシリーズ最高興行収入を達成。インフレ調整後の北米興行収入では、現在もシリーズ最高記録を保持しています。
評価:大規模な水中アクションシーンが話題となり、アカデミー視覚効果賞を受賞しました。批評家のスコアは85%と高く、コネリーの演技も依然として魅力的であると評価されましたが、一部には水中シーンが長すぎるといった意見もありました。
5. You Only Live Twice (1967) / 『007は二度死ぬ』

プロット:米ソの宇宙船が謎の妨害工作によって次々と姿を消す事件が発生。ボンドは偽装死を遂げた後、事件の黒幕を追って日本へ向かい、スペクターの首領エルンスト・スタヴロ・ブロフェルドと対決する。
予算:950万ドル。そのうち100万ドルはケン・アダムがデザインした火山のクレーターセットに費やされました。
興行収入:全世界で約1億1160万ドル。
評価:日本を舞台にしたエキゾチックな雰囲気や、丹波哲郎、若林映子、浜美枝といった日本人キャストの出演が話題となりました。コネリーの演技については、一部で「飽きが見える」「精彩を欠く」といった指摘もありましたが、全体としては好評でした。
6. Diamonds Are Forever (1971) / 『007/ダイヤモンドは永遠に』

プロット:前作でボンドを演じたジョージ・レーゼンビーに代わり、コネリーがボンド役に復帰。妻を殺したブロフェルドへの復讐を果たした後、ダイヤモンドの密輸事件を追ってラスベガスへ。そこで再びブロフェルドの陰謀に巻き込まれる。
予算:720万ドル。
興行収入:全世界で約1億1600万ドル。1971年の映画の世界興行成績で第1位を記録しました。
評価:批評家のスコアは63%と賛否両論。コネリーの復帰は歓迎されたものの、一部の批評家からは「やる気がない」と評される一方、ユーモラスな脚本を楽しんでいるように見えるという意見もありました。ロジャー・エバートはコネリーの存在感を称賛しています。
7. Never Say Never Again (1983) / 『ネバーセイ・ネバーアゲイン』

イーオン・プロダクションズ以外の製作会社タリアフィルムによる作品で、『サンダーボール作戦』の映画化権を持つケヴィン・マクローリーが製作総指揮を務めたリメイク作品です。タイトルは、コネリーがかつて「二度とボンドは演じない」と宣言したことに由来します。
プロット:引退状態にあったボンドが、スペクターによる核ミサイル強奪事件の捜査のために現役復帰する。
予算:3600万ドル。
興行収入:全世界で1億6000万ドル。
評価:コネリーの12年ぶりのボンド役復帰は概ね好評で、キャラクターの人間的な深みが評価されました。一部では『サンダーボール作戦』をいくつかの点で改善していると評される一方、イーオン製作の作品に比べて「安っぽく見える」「音楽がひどい」といった批判もありました。
ボンド・インパクト:キャラクターの確立、映画界への影響、世界的現象化
ショーン・コネリーは、単にジェームズ・ボンドを演じた最初の俳優というだけではありません。彼は、その後のスパイ映画のジャンル全体を定義づけることになる映画的ペルソナを共同で創造し、後続のボンド俳優だけでなく、アクションヒーローの原型そのものに影響を与えました。
コネリーは、ボンドというキャラクターに、それまでの文学作品にはなかった肉体的な強靭さとユーモアをもたらし、命を吹き込みました。彼が演じるボンドは、原作よりもプレイボーイ的で冷徹な面が強調され、「あらゆる感覚が鋭敏で、全てに目覚めており、極めてアモラル。彼は闘争の中でこそ輝く」とコネリー自身が語ったように、独自のキャラクター像を確立しました。彼は、アメリカの主演男優のようなスタイルを持つ英国のスクリーンヒーローという、新たな演技スタイルを確立したと評価されています。
彼のボンドは、アメリカ映画協会(AFI)によって映画史上3番目に偉大なヒーローに選ばれており、その成功は現代のブロックバスター映画の成立にも貢献したと言われています。

特筆すべきは、原作者イアン・フレミングの反応の変化です。当初コネリーの起用に否定的だったフレミングですが、完成した映画を観てその演技を高く評価し、後の小説『女王陛下の007』や『007は二度死ぬ』で、ボンドの出自にスコットランド系の祖先を加えるという形で、コネリーのイメージを自身の作品に取り込んだのです。これは、コネリーがいかにボンドというキャラクターの形成に大きな影響を与えたかを示す強力な証左と言えるでしょう。
コネリー自身は、当初ボンドのキャラクターにユーモアが欠けていると感じ、「観客に受け入れられるためには、彼をどこかおどけて演じ、人々が笑えるようにする必要がある」とプロデューサーに提案したと語っています。この判断は、ボンドというキャラクターが持つ魅力の重要な要素となりました。
彼が作り上げた「クールなカリスマ性、暴力性、そして傲慢さの絶妙なミックス」は、映画版ジェームズ・ボンドの代名詞となったのです。その結果、コネリーのボンドは1960年代以降の男性的な理想像(クールで有能、洗練されていながらタフ)を体現する世界的な文化的試金石となり、今日に至るまでアクションヒーローがしばしば比較される基準となっています。
撮影裏話:ボンド映画製作秘話と記憶に残るエピソード
華やかなスクリーンの裏側では、数々の興味深いエピソードが生まれていました。
『007/ドクター・ノオ』
- 有名なセリフ「ボンド、ジェームズ・ボンド」は、脚本では「私はジェームズ・ボンドだ」となっていましたが、コネリー自身が弱いと感じ、アドリブで変更したものです。
- 初代ボンドガールのウルスラ・アンドレスとは撮影中に恋愛関係にあったと報じられていますが、コネリーの当時の妻ダイアン・シレントの妊娠により関係は終わりました。後にコネリーはアンドレスの息子の名付け親になっています。
- 監督テレンス・ヤングの指導のもと、コネリーはヤング行きつけのテーラー、アンソニー・シンクレアでボンドのスタイリッシュなスーツを仕立てました。
『007/ロシアより愛を込めて』
- チェスの名手クロンティーンを演じたヴラデク・シェイバルは、当初ボンド映画への出演をためらっていましたが、コネリーの説得で出演を決意し、それが彼のキャリアを大きく助けることになりました。
- イタリアでの撮影中、コネリーはカジノのルーレットで「17」に3回連続で賭けて勝ち、当時の金額で20万ドル相当を手にしたという逸話があります。
- ヘリコプターのシーンの撮影中、経験の浅いパイロットが接近しすぎ、コネリーがもう少しで首を切断されそうになるという危険な瞬間がありました。
『007/ゴールドフィンガー』
- ボンドがレーザー光線で拷問される有名なシーンでは、本物のレーザーではフィルムに映らなかったため、テーブルの下に隠れたスタッフがアセチレンバーナーを使って切断効果を演出し、コネリーは非常に不快な思いをしました。
- オッドジョブ役のハロルド坂田との格闘シーンの撮影中に、コネリーは軽い背中の怪我を負いました。また、坂田自身も、電気の流れるゲートから帽子を回収しようとして大やけどを負っています。
- コネリーは、この作品のゴルフシーンの撮影中にゴルフへの生涯にわたる情熱を確固たるものにしました。
『007/サンダーボール作戦』
- 水中撮影シーンでは、サメよけのプラスチックパネルが不十分で、コネリーは本物のサメに接近される恐怖を味わいました。彼は当初、プレキシガラスの仕切りなしでサメのいるプールに入ることを拒否しましたが、その仕切りにも隙間があったのです。
- ナッソーでの撮影中、マスコミの取材攻勢にうんざりし、ジャーナリストとの接触を拒否しました。
- 撮影終了後、ビーチで大勢の見物人がいる中、コネリーが自身のカツラ(『ドクター・ノオ』以降、17歳で髪が薄くなり始めてから着用していました)をフリスビーのようにヘアスタイリストに投げ渡したというユーモラスなエピソードが伝えられています。
ボンドを超えて:多彩な役柄とアカデミー賞の栄光
ジェームズ・ボンド役で世界的なスターダムにのし上がったショーン・コネリーですが、彼はその成功に安住することなく、ボンドのイメージに固定されることを避けるため、積極的に多様な役柄に挑戦し続けました。その結果、彼は単なるアクションスターとしてだけでなく、演技派俳優としての地位も確立し、ついにはアカデミー賞の栄誉にも輝きました。
多様性の証明:ボンド以外の主要作品
コネリーは、アルフレッド・ヒッチコックやシドニー・ルメットといった名匠たちとの仕事を通じて、自身の演技の幅を広げていきました。これらの作品への出演は、彼がスパイ映画のジャンルを超えた芸術的信頼性を確立するための戦略的な動きであり、タイプキャスティングとの戦いでもありました。
『マーニー』(Marnie, 1964年、監督:アルフレッド・ヒッチコック)

ティッピ・ヘドレンの相手役マーク・ラトランドを演じたこの心理スリラーは、コネリーにとってボンド後のキャリアを模索する上での重要な一歩でした。映画自体は賛否両論ありましたが、コネリーの演技はしばしば過小評価されているものの、彼のシリアスな俳優への転換点として評価されています。この作品は、後にサテライト賞のクラシックDVD部門(コレクションの一部として)にノミネートされました。
『丘』(The Hill, 1965年、監督:シドニー・ルメット)

北アフリカのイギリス陸軍刑務所を舞台に、反抗的な囚人ジョー・ロバーツを演じました。この作品は批評家から絶賛され、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。コネリーの抑えた演技は007のイメージからの脱却を示すものとして高く評価されました。英国アカデミー賞では作品賞、英国作品賞などにノミネートされ、オズワルド・モリスが撮影賞を受賞しました。ボンドとは対照的な、生々しく非魅力的な役柄を演じきったことは、彼の俳優としての力量を証明しました。
『オリエント急行殺人事件』(Murder on the Orient Express, 1974年、監督:シドニー・ルメット)

オールスターキャストの一員としてアーバスノット大佐を演じました。この作品は興行的にも批評的にも成功を収め、イングリッド・バーグマンがアカデミー助演女優賞を受賞するなど、数々の賞に輝きました。
『王になろうとした男』(The Man Who Would Be King, 1975年、監督:ジョン・ヒューストン)

マイケル・ケイン演じるピーチー・カーネハンと共に、アフガニスタンの奥地で王として君臨しようとする元英国軍人ダニエル・ドレイポットを熱演。コネリー自身、この役を「お気に入りの役」と公言しています。批評家からも高く評価され、アカデミー賞では脚本賞、美術賞、衣裳デザイン賞、編集賞の4部門、英国アカデミー賞では撮影賞、衣裳デザイン賞の2部門にノミネートされました。
『ハイランダー/悪魔の戦士』(Highlander, 1986年)

不死身の剣士コナー・マクラウドを導くエジプト出身の不死者、ファン・サンチェス・ヴィラ=ロボス・ラミレスを演じました。公開当初の評価はまちまちでしたが、後にカルト的な人気を博し、コネリーの存在感が作品に風格を与えたと評されています。
その他、『風とライオン』(1975年)、『ロビンとマリアン』(1976年)、『遠すぎた橋』(1977年)、『バンデットQ』(1981年)、『アウトランド』(1981年、サターン賞主演男優賞ノミネート)など、ボンド以外の初期から中期のキャリアにおいても注目すべき作品に多数出演しています。
オスカー受賞:『アンタッチャブル』とその他の主要受賞歴
ショーン・コネリーの俳優としてのキャリアにおける頂点の一つが、1987年の映画『アンタッチャブル』でのアカデミー助演男優賞受賞です。これは、彼が長年にわたりボンド以外の多様な役柄で高い評価を得てきたことの集大成であり、アクションヒーローのイメージを超えた演技派俳優としての地位を確固たるものにしました。
『アンタッチャブル』(The Untouchables, 1987年、監督:ブライアン・デ・パルマ)

禁酒法時代のシカゴを舞台に、アル・カポネに立ち向かう財務省捜査官チームの一員である、タフなアイルランド系アメリカ人警官ジム・マローンを演じました。この役で、コネリーはスコットランド人俳優として初めてアカデミー賞(助演男優賞)を受賞しました。

さらに、ゴールデングローブ賞助演男優賞、ロンドン映画批評家協会賞男優賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞助演男優賞も受賞し、英国アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされました。この一連の受賞は、彼がアクションスターとしてだけでなく、キャラクター俳優としても卓越した才能を持っていることを証明しました。
『薔薇の名前』(The Name of the Rose, 1986年)

中世の修道院で起こる連続殺人事件の謎を追うフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムを演じました。この作品で英国アカデミー賞主演男優賞を受賞し、ドイツのジュピター賞では最優秀国際男優賞に輝きました。この受賞は、『アンタッチャブル』でのオスカー受賞に先立つものであり、彼の演技力が国際的に高く評価されていたことを示しています。
これらの受賞に加え、コネリーは数々の栄誉ある賞を受賞しています。
- 英国アカデミー賞 フェローシップ賞(1998年)
- ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞(生涯功労賞、1996年)
- ケネディ・センター名誉賞(1999年)
- アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)生涯功労賞(2006年)。
この受賞式で彼は引退を表明しました。
2000年には、エリザベス女王2世より演劇への貢献を称えられナイトの爵位を授与されました。彼はこの日を「人生で最も誇らしい日の一つ」と語っています。
さらなる成功:後期のキャリアハイライト
アカデミー賞受賞後も、ショーン・コネリーは精力的に活動を続け、数々の記憶に残るキャラクターを生み出しました。彼の確立されたスター性を活かし、権威ある人物や師匠的な役柄、あるいは自身の象徴的な過去を巧みに投影した役柄を演じることが多くなり、プロデューサーとしても手腕を発揮しました。
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(Indiana Jones and the Last Crusade, 1989年)

ハリソン・フォード演じるインディアナ・ジョーンズの父親、ヘンリー・ジョーンズ教授をユーモラスかつ威厳たっぷりに演じました。この役でゴールデングローブ賞と英国アカデミー賞の助演男優賞にノミネートされ、ジュピター賞の最優秀国際男優賞を受賞しました。映画自体もアカデミー音響効果編集賞を受賞しています。
『レッド・オクトーバーを追え!』(The Hunt for Red October, 1990年)

ソ連の最新鋭原子力潜水艦の艦長マルコ・ラミウスを演じ、緊迫感あふれる演技で観客を魅了しました。英国アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、映画はアカデミー音響効果編集賞を受賞しました。
『ザ・ロック』(The Rock, 1996年)

元SAS大尉で連邦刑務所に収監されていたジョン・パトリック・メイソンという、謎めいた過去を持つ男を演じ、製作総指揮も務めました。ブロックバスター・エンターテイメント賞の助演男優賞(アクション/アドベンチャー部門)を受賞し、ニコラス・ケイジと共にMTVムービー・アワードのベストデュオ賞にも輝きました。
『ドラゴンハート』(Dragonheart, 1996年)
伝説のドラゴン、ドレイコの声を担当し、その重厚な声でキャラクターに生命を吹き込みました。オンライン映画&テレビ協会賞の最優秀声優賞を受賞し、アニー賞にもノミネートされました。
『小説家を見つけたら』(Finding Forrester, 2000年)

隠遁生活を送る伝説的な作家ウィリアム・フォレスターを演じ、プロデューサーも兼任しました。作品は高い評価を受けましたが、コネリー自身の大きな演技賞受賞は資料からは確認できませんでした(共演の若手俳優がヤング・アーティスト賞を受賞しています)。
『エントラップメント』(Entrapment, 1999年)

老練な美術品泥棒ロバート・”マック”・マクドゥガルを演じ、こちらもプロデューサーを務めました。ヨーロッパ映画賞の観客賞(最優秀ヨーロッパ男優賞)を受賞し、ブロックバスター・エンターテイメント賞にもノミネートされました。批評家の評価は分かれましたが、興行的には成功を収めました。
これらの作品群は、コネリーが自身の年齢に合わせてイメージを巧みに変化させながら、高い人気と商業的魅力を維持し続けた、熟練したキャリアの進化を示しています。プロデューサーとしての活動拡大は、彼が創造的なコントロールと経済的な関与をより深めようとした意志の表れとも言えるでしょう。
素顔のショーン・コネリー:愛、友情、そしてスコットランドへの熱き想い
スクリーン上での圧倒的な存在感とは裏腹に、ショーン・コネリーの私生活は、深い愛情、長年の友情、そして故郷スコットランドへの揺るぎない情熱に彩られていました。
私生活:結婚と家族
ショーン・コネリーは生涯に2度結婚しています。
最初の結婚:ダイアン・シレント(1962年~1973年)

1962年にオーストラリア人女優のダイアン・シレントと結婚しました。二人の間には一人息子ジェイソン・コネリー(1963年1月11日生まれ)がおり、彼もまた俳優として活動しています。夫婦は1971年2月に別居し、1973年に離婚しました(一部資料では1974年離婚とも)。離婚後、シレントは暴露本を出版するなど、コネリーに対する執拗な中傷を行ったと報じられています。彼女は2011年に亡くなりました。
二度目の結婚:ミシュリーヌ・ルクブルン(1975年~2020年、コネリーの死まで)

1975年5月にモロッコ系フランス人画家のミシュリーヌ・ルクブルンと再婚しました。二人は1970年にモロッコのゴルフトーナメントで出会いましたが、当時は互いに別の相手と結婚していました。ミシュリーヌは、初めて会った瞬間から強烈な結びつきを感じたと語っています。最初の出会いから2年後に再会し、結婚に至りました。
ミシュリーヌにはそれまでの結婚でオリヴァー、ミーシャ、ステファンという3人の子供がおり、ショーンとミシュリーヌの間には子供はいませんでした。しかし、ステファンは家族の一員として「彼の息子」として言及されることもあります。二人の結婚生活はコネリーが亡くなるまでの45年間に及びました。コネリーはミシュリーヌを「人生最愛の人」と呼んでいました。ミシュリーヌ自身も国際的に評価される画家です。
コネリーのプレイボーイ的なスクリーン上のペルソナ(特にボンド役)とは対照的に、ミシュリーヌ・ルクブルンとの長く献身的な結婚生活は、彼が私生活では深く永続的な個人的コミットメントを重んじる人物であったことを示唆しています。最初の結婚は困難な形で終わりましたが、ミシュリーヌとの45年間の関係は、名声のプレッシャーやパブリックイメージにもかかわらず、強固なパートナーシップに支えられた私生活を物語っています。
情熱と人柄
ゴルフ: コネリーは熱烈なゴルファーでした。ミシュリーヌと出会ったのもゴルフトーナメントがきっかけでした。引退後はほぼ毎日プレーしていたと言われ、ゴルフを「映画界の狂気から回復するための療養所」と呼び、「性格が露わになる中毒性のあるゲーム」だと語っていました。アカデミー賞よりも全米オープンで優勝したかったと公言するほど、ゴルフを愛していました。
マイケル・ケインとの友情: 俳優マイケル・ケインとは50年以上に及ぶ親密な友情で結ばれていました。二人は映画『王になろうとした男』で共演しています。若い頃、ナイトクラブでコネリーが4人の男を叩きのめし、その間ケインが彼のコートを持っていたという武勇伝も残っています。ケインはコネリーの死に際し、「偉大なスター、素晴らしい俳優、そして最高の友人だった」と追悼の言葉を述べています。

引用元:https://www.threads.com/@historydefined/post/DGi2G8ItNFf/sir-roger-moore-sir-sean-connery-and-sir-michael-caine?hl=ja
人柄とウィット: コネリーは辛口のウィットに富み、明晰で自信に満ち、時に厳格な一面も見せる人物として知られていました。彼自身、ボンドを演じることで自信を深めたと認めています。若い頃はボディビルダーとしても活躍し、「アーノルド・シュワルツェネッガーのような体格だった」と評されています。
名言の数々:
- スコットランド人であることについて:「私はイングランド人ではない…私はスコットランド人だ!」
- ボンドについて:「あの忌々しいジェームズ・ボンドは大嫌いだ。殺してやりたいくらいだ」と語る一方で、「ボンドと彼の身に起こることには関心がある」とも述べています。
- 引退について:「もう二度と演技をすることはないだろう。素晴らしい思い出はたくさんあるが、あの日々は終わったのだ」
- 妻ミシュリーヌについて:「ミシュリーヌは素晴らしい女性だ。私の人生最愛の人だ」
- 映画業界について:「馬鹿者たちにはうんざりだ…映画の作り方を知っている人間と、映画製作のゴーサインを出す人間との間の溝は広がるばかりだ」
「スコットランドよ永遠なれ」:スコットランド独立運動への支持と政治的関与
ショーン・コネリーのアイデンティティの根幹を成すものの一つが、故郷スコットランドへの深い愛と、その独立への揺るぎない支持でした。彼は生涯を通じてスコットランド独立の熱心な支持者であり、スコットランド国民党(SNP)の強力な支援者でもありました。その関与は1960年代から続いています。
16歳(または18歳)の時に腕に入れた「Scotland Forever」のタトゥーは、彼のスコットランドへの忠誠心を象徴しています。1991年にはSNPの党勢拡大に貢献したとされる党の政治放送に出演しました。1999年のスコットランド議会開設式典にも出席し、その日を「人生で最も重要な日」と語っています。
スペイン、後にバハマに居住していたため、「タックス・エグザイル(税金逃れの国外居住者)」がスコットランドの内政に口出しするなという批判も受けましたが、彼は「私にはスコットランドに関心を持ち、関与する資格がある。私にはスコットランドにおける生まれながらの権利があるのだ」と反論しました。2003年には、スコットランドが独立するまで故郷(に住むこと)には戻らないと宣言したこともあります。
スコットランド首相(当時)ニコラ・スタージョンは彼の死に際し、「彼は生涯独立したスコットランドの支持者であり、その信念を共有する我々は彼に大きな感謝の念を抱いている」と述べています。コネリーのスコットランド独立への情熱的で揺るぎない支持は、彼の俳優としてのキャリアを超越し、しばしば彼を政治的な注目の的としました。これは、彼が最も有名な役柄と同じくらい、故郷へのコミットメントを自身のアイデンティティの核心としていたことを示しています。
博愛活動:スコットランド国際教育基金とその他の慈善活動
ショーン・コネリーのスコットランドへの愛は、政治的な発言だけに留まらず、具体的な慈善活動にも表れていました。彼はスコットランド国際教育基金(Scottish International Educational Trust, SIET)を共同設立しました。
特筆すべきは、映画『007/ダイヤモンドは永遠に』の出演料全額(100万ドル以上)をこのSIETに寄付したことです。この寛大な行為は、彼の慈善活動の中でも特に大きなものでした。SIETは教育を中心に、何千人ものスコットランドの人々に恩恵をもたらしてきました。
コネリーは生涯を通じて数百もの慈善団体を支援し、特に教育、文化、そしてスコットランドに焦点を当てていました。また、「フレンズ・オブ・スコットランド」を設立し、スコットランドとアメリカの文化的、教育的、歴史的、系図的なつながりを促進し、負傷兵支援プロジェクトや対麻痺退役軍人協会、アースキン病院といった慈善団体のための募金活動も行っていました。さらに、海洋環境保護団体シーシェパードの国際諮問委員会にも参加し、エルトン・ジョン・エイズ基金も支援していました。
晩年と遺産:銀幕からの引退と永遠に語り継がれる伝説
引退:決断と最後の作品
ショーン・コネリーは、2006年にアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)から生涯功労賞を授与された際、公式に俳優業からの引退を表明しました。彼が最後に主演した実写映画は、2003年公開の『リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い』でした。
この作品での経験が、彼の引退決意に大きな影響を与えたと広く考えられています。伝えられるところによると、監督のスティーヴン・ノリントンとの関係は険悪で、コネリーは彼を「狂っている」と評したほどでした。コネリー自身も、作品を何とか救おうと編集作業に深く関わったとされています。
彼は当時の映画業界について、「馬鹿者たちにはうんざりだ。映画の作り方を知っている人間と、映画製作のゴーサインを出す人間との間の溝は広がるばかりだ」と不満を漏らしていました。
引退後、スティーヴン・スピルバーグ監督から『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008年公開)への出演を打診されましたが、「引退生活が楽しすぎる」としてこれを辞退しました。キャラクターに関するスピルバーグとの創造的な意見の相違も一因だったとされています。
親友のマイケル・ケインは、コネリーが「老人役の端役はやりたくないし、ロマンティックな主役のオファーも来なくなったから、映画業界が彼を引退させたようなものだ」と示唆しています。
彼の最後の映画出演は、声優として参加し、製作総指揮も務めた2012年のアニメ映画『サー・ビリ』(原題:Sir Billi)となりました。また、同年にはドキュメンタリー『Ever to Excel』のナレーションも担当しています。
バハマでの生活と最期
引退後のショーン・コネリーは、1990年代から妻ミシュリーヌと共にバハマの高級住宅地ライフォード・ケイで暮らしていました。そこでは、彼の大きな情熱の一つであったゴルフをほぼ毎日楽しんでいたと伝えられています。
公の場に姿を見せることはほとんどなくなり、2019年にはハリケーン・ドリアンにバハマの自宅で遭遇しましたが、無事でした。2013年にはアルツハイマー病を患っているとの噂が流れましたが、マイケル・ケインやコネリーの広報担当者によって否定されました。息子のジェイソンも、体調を崩したことはあったものの精神的なものではないと述べています。しかし、彼の家族は、晩年には認知症を患っていたことを明らかにしています。
巨星墜つ:死、死因、そして世界の追悼
2020年10月31日、ショーン・コネリーは90歳でその生涯を閉じました。バハマのナッソーにある自宅で、家族に見守られながら安らかに眠りについたと報じられています。
死因は、肺炎、心房細動、そして老衰による呼吸不全と発表されました。家族によると、彼はしばらく体調を崩しており、最晩年は認知症を患っていたとのことです。
彼の死は世界中で悼まれ、ダニエル・クレイグ、ピアース・ブロスナンといった後任のボンド俳優たち、ジョージ・ルーカス、ハリソン・フォード、マイケル・ベイ、ロバート・デ・ニーロ、ケビン・コスナーといった映画界の巨匠や共演者、そしてニコラ・スタージョンやアレックス・サモンドといったスコットランドの政治家など、各界から数多くの追悼の声が寄せられました。
これらの広範かつ深い追悼の声は、コネリーがボンドという枠を超えて、映画と大衆文化に与えた記念碑的で永続的な影響を浮き彫りにしました。
不朽の遺産:映画界への不滅の刻印と永続する影響力

ショーン・コネリーは、ジェームズ・ボンドというキャラクターのスタイルを確立し、一つの時代を定義しました。彼の演技は後進の俳優や映画製作者たちに多大な影響を与え続けています。ボンド役を超えて成功を収め、アカデミー賞を受賞した輝かしいキャリアは、多くの人々に記憶されています。
彼のカリスマ性、野性的な男らしさ、特徴的な声、そして圧倒的なスクリーンでの存在感は、彼を忘れがたい俳優にしました。誇り高きスコットランド人として、彼は母国の国際的な大使の役割も果たしました。そして、彼が演じたジェームズ・ボンドは、今なおこのキャラクターの基準点として語り継がれています。
ショーン・コネリーの遺産は、映画史上最も象徴的なキャラクターの一人を生み出しただけでなく、そのような決定的な役柄を超越して、より広範な芸術的評価を獲得し、半世紀以上にわたって世界的な魅力を維持し続けた映画界の先駆者としてのものです。
結論:ショーン・コネリーが映画史に残した偉大な足跡

スコットランドの貧しい家庭に生まれながら、不屈の精神と類稀なる才能で世界の頂点へと駆け上がったショーン・コネリー。彼の俳優人生は、ジェームズ・ボンドという不滅のアイコンを創造し、その名を永遠に映画史に刻みつけたこと、そしてボンドの枠を超えて多彩な役柄に挑戦し続け、アカデミー賞俳優としての栄誉を勝ち取ったこと、この二つの偉大な功績によって燦然と輝いています。
彼の持つ独特の野性味と洗練されたカリスマ性、そしてスクリーン上での圧倒的な存在感は、観る者を瞬時に虜にし、数々のキャラクターに忘れがたい命を吹き込みました。また、故郷スコットランドへの深い愛情と独立への強い信念は、彼の人間性を形作る重要な要素であり、単なる映画スターではない、一人の人間としての魅力を際立たせていました。
ショーン・コネリーは、象徴的な役柄を通じて大衆文化を形成すると同時に、多様で挑戦的な作品群によって芸術家としての確固たる地位を築き上げました。その結果、彼は絶大な人気と批評家からの尊敬という、両方を手にした稀有な俳優として、私たちの記憶に永遠に生き続けるでしょう。
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