「日本暗殺秘録」実際に起きた事件の詳細 その2 「大隈重信遭難事件」〜「安田善次郎暗殺事件」まで

映画

前々回に紹介した「日本暗殺秘録」の2回目です。

今回は「大隈重信遭難事件」「星亨暗殺事件」「安田善次郎暗殺事件」について、史実を中心に、出演俳優の紹介などもしていきます。

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「大隈重信遭難事件」

事件の実行者は来島恒喜(くるしま つねき)。

福岡県出身の来島は、23歳のときに上京。アジア主義(日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称)を抱く政治団体「玄洋社」に参加します。

「玄洋社」は日本で初めての右翼団体と呼ばれており、明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされています。

当時外務大臣だった大隈重信は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかりますが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆います。しかし、剛毅な大隈重信は決して自案を曲げませんでした。

来島は大隈重信の暗殺を計画、計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていましたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行。玄洋社も退社します。

 

ここからは映画の様子を交えて描写を伝えます。

1889年10月18日、29歳になっていた来島は正装のいでたちで、黒のハットをかぶり、黒い傘を腕にかけて外務省入り口で待機する。門番に問いただされるも「友人を待っている」と言ってごまかした。

外務省に入ってきた大隈重信の乗る馬車に、傘の中に隠し持っていた爆弾を投げつけて、馬車内で爆発させる。大混乱の中、門番が「犯人を見たか?」と聞いてきたので、来島は反対側の道を傘で指し示した。

走っていった門番を見届け、大隈重信の死を確信した来島はその場で短刀で喉を突き自害した。映画ではここで終わっています。


史実のその後ですが、大隈重信は命は取り留めます。

しかし顔と手に軽症、右膝とくるぶしに重症を負い、右脚を切断することとなります。

そしてこの事件がきっかけで、かねてから条約交渉に反発していた閣僚らは、当時の黒田清隆首相に条約改正交渉の中止を求め、これにより黒田内閣は総辞職に追い込まれ、条約改正は頓挫しました。

その後、大隈重信は自分を殺そうとした来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っていたそうです。

 

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「星亨暗殺事件」

事件が起きたのは1901年6月21日。殺されたのは衆議院議員の星亨(ほしとおる)である。

星亨は1890年に立憲自由党(現・自民党の源流)に参加して衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たします。

その後、衆議院議長に選ばれますが、1893年に収賄疑惑が持ち上がり議長不信任案が可決されてしまいます。それでも議長席に座ろうとしたために衆議院から除名されてしまいます。

しかし次の選挙で当選を果たして返り咲き、1900年には通信大臣に任命されました。

しかし星亨の周りでは収賄疑惑が常に噂され、本人は否定しているものの後の日本においての政党政治と利益誘導の構造、すなわち金権型政党政治を築いたとされています。

それが原因だったのでしょう、星亨が東京市会議長であった明治34年(1901年)6月2日午後3時過ぎ、伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)により、東京市庁参事会議事室内で秘密会終了後市長・助役・参事会議員たちと懇談中、刺殺されてしまいます。

暗殺犯の伊庭想太郎は、星亨を刺殺した後に「天下のためである!」と怒号を上げて、持参した斬奸状なる書状を読み上げたそうです。

伊庭想太郎は翌年に無期懲役になり、1907年に胃ガンによって獄中死しました。

 


 

「安田善次郎暗殺事件」

安田善次郎は日本4大財閥の一つである安田財閥を作った人物です。

もともと富山の下級武士の子として生まれた善次郎は1858年、20歳のときに奉公人として上京。玩具屋や鰹節屋兼両替商に勤めて、25歳のときに独立。乾物と両替商を営む安田商店を開業します。

その後、安田銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)、損害保険会社(現・損害保険ジャパン)、生命保険会社(現・明治安田生命保険)などを設立しました。


その安田善次郎を暗殺したのは朝日平吾。彼は中国の大連で仕事をしていましたが、素行不良として退去命令を出され帰国します。

その後いろいろな事業を計画し、渋沢栄一や大倉喜八郎ら富豪や有名人から寄付金を集めるもことごとく失敗します。そんな時、1920年に朝日自身が株で大損した戦後恐慌において、翌年になって安田善次郎が株を買い占めて2000万の利益を生んでいるとの噂を耳にします。

そして朝日平吾は安田善次郎が滞在していた別邸・寿楽庵を訪れます・・・

菅原文太について

朝日平吾を演じた菅原文太について少し紹介します。若い頃ははファッションモデルをしながら映画などに出演。

新東宝、松竹と渡り歩いて、34歳のときに東映に入ります。そこで「現代ヤクザ」シリーズ、「まむしの兄弟」シリーズ、「トラック野郎」シリーズ、「仁義なき戦い」シリーズなどでスターダムに登りつめます。

40代くらいの人は、「北の国から」の中で、純が好きな女の子を妊娠させて、その父親役の菅原文太が父親の田中邦衛に言う「誠意って何かね?」のほうが印象に残っているかもしれませんね。

このときは少し温厚で、なおかつ厳しい父親像を演じていました。

史実での朝日平吾のような、寄付金をもらえなかったら切腹しようとする危険人物を演じるのは、菅原文太が「仁義なき戦い」などでヤクザ役をよく見ていた私にとっては、当たり役のように感じました。

事件発生

さて、映画では「労働者のためのホテルを建てたい」と安田善次郎にお願いする朝日平吾のシーンから始まります。

そこで断られた朝日平吾は懐から短刀を取り出して安田善次郎に切りつけます。フラフラしながら逃げようとする安田善次郎に背中から短刀を突き刺し、安田善次郎は庭の地面に転げ落ちていきます。

従者や家政婦が安田善次郎の悲鳴を聞いてそこにやってくるも、「寄るな!寄ればお前たちの命もないぞ!」と言って、瀕死状態の安田善次郎にゆっくりと近づき、もう一太刀浴びせるところで終わっています。

 

史実では、この光景を見たか見ないかわからりませんが、家政婦が警察に通報します。しかしその間に朝日平吾は自らの首を短刀で切り、自殺を遂げました。

朝日は犯行の直前に投宿していた長生館の女将宛てに『宿賃も支払わずにこんな事になったが、非常に相済まない』との、また佐賀県の父親には『非常な罪を犯す不幸を許して』との手紙を折鞄の中に入れていた。

また斬奸状と遺書も持参しており、斬奸状には、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」と記されてあったという。

朝日の葬儀には、全国の労働組合や支援者が善次郎に負けない葬儀をしようと駆け付け、盛大な物になった。また、当時のマスコミや新聞はこぞって朝日を英雄視したため、事件の37日後に起きた原敬暗殺事件を誘発したと言われている。墓は東京都文京区護国寺近くの西信寺にある。

朝日に暗殺された善次郎は、東京大学の安田講堂や日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地など寄贈をしていたものの、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られず、それが朝日による暗殺の一因になった。安田講堂は死後に善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。

引用元:Wikipedia

 

さて、今回はここまでにします。9つの事件のうち、半分以上の5つを紹介していきましたが、映画本編では15分弱にまとめられています。ここからまだ2時間余あります。

次の事件から少し長編(それでも30分位!?)になり、暗殺者の心情などが描かれています。ここまではプロローグといったところでしょうか。

 

次回は「ギロチン社事件」と、この作品のメインと言ってもいい、千葉真一主演の「血盟団事件」について書いていきます。

 

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